水のあれこれ 262 鳥屋野潟(とやのがた)

30年ほど前、「公共事業で整備された池」ぐらいに勝手に思い込んでいた鳥屋野潟ですが、今回訪ねた後にこうして記録をまとめながら知らないことばかりでした。

鳥屋野潟(とやのがた)は、新潟県新潟市中央区にある潟。栗の木川に合流する一級河川信濃川水系)でもある。

Wikipedia鳥屋野潟

 

「栗の木川」はどこだろうと改めて地図を見直すと、バスで向かう途中で渡った弁天橋を流れていました。

鳥屋野潟の東側から細い水色の線が出ていて、1kmほどのところで合流しているのが栗の木川でした。

栗の木川は紫竹山(しちくやま)ジャンクションの下を北側へと流れ、JRの線路の先1kmほどのところで通船川と合流して信濃川の河口付近に流れています。

こちらが鳥屋野潟の本来の流れだったのですね。

 

 

新潟市の「潟のデジタル博物館」というサイトに、鳥屋野潟の説明がありました。

鳥屋野潟の成因時期については定かではありませんが、約3,000年前に、現在の鳥屋野潟付近に海岸線が来ており、また信濃川流域沖積層の堆積年代の測定などにより、約1,000年前以降の初期には、潟湖化していたと解釈されていることから、約3,000年~1,000年前には鳥屋野潟の原型ができていたと考えられます。

 

現在は新潟市の中心部として人がたくさん住み始めたのも、そう遠くはない昔でしょうか。

 

*海抜より低い鳥屋野潟*

 

Wikipediaの「鳥屋野潟」の「歴史」を読むと、この地域の新田開発が始まったのが十六世紀末だったことの理由が書かれています。

越後平野信濃川阿賀野川の土砂が堆積してできた沖積平野であり、鳥屋野潟は越後平野に形成された後背湿地に残る池沼のうち最大のものである。また、新潟砂丘が形成され、排水の障害となったこともこの地域の潟の成り立ちに大きく関わっている。

鳥屋野潟の水面は標高マイナス2.5mと海水面より大幅に低く、山潟地区から亀田郷に至って広大な海抜ゼロメートル地帯が広がっている。

 

太右エ門新田バス停から水田地帯が低く見えた理由は信濃川の堤防をどんどん嵩上げしたからかと思ったのですが、もともと海水面より低い地域だったようです。

 

これらの地域周辺は昭和初期までは地域の言葉で「泥田んぼ(ドロタンボ)」と呼んだ湿田であった。このため、現在では西の親松導水路を経由し、信濃川にポンプで毎秒100トン排水している(将来的には180トンを計画)。これにより周辺の農地の水はけが改善され、乾田が保たれている。

 

津軽平野小貝川周辺や石川県の邑知潟、あるいは古くからの立田輪中の排水の歴史を思いました。

 

 

*栗の木川と鳥屋野潟放水路による排水*

 

「潟のデジタル博物館」にその排水の歴史が書かれています。

鳥屋野潟からの排水は、かつては栗の木川を通じて信濃川河口部に排水されていましたが、1964(昭和39)年の新潟地震以降、栗の木川下流への通水は遮断され、鳥屋野潟放水路を通じて、親松排水機場(1988年運転開始)から信濃川に排水されています。鳥屋野潟の常時水位は、周辺からの排水と豪雨時の洪水調整を目的として、親松排水機場のポンプでT.P.マイナス2.5メートルに維持されています。なお、栗の木川下流(常時水面標高マイナス1.65メートル)の浄化のため、竹尾揚水機場から1日数時間2立方メートル毎秒が栗の木川に揚水されており、鳥屋野川の水は栗の木川ー通船川を通じても、信濃川に排出されていることになります。

 

新潟市周辺の小さな支流まで水流が監視された大きな制御装置を30年ほど前に見たのは、この親松排水機場が新たに建設されて排水能力が大いに高まっていた時期だったようです。

 

あの大きな装置には、川だけでなくこの鳥屋野潟も表示されていたのかもしれません。公共事業を批判的に見るという世の中の雰囲気に影響されていた私には、大事なことも目に入らなかったのでした。

 

*排水と遊水池と*

 

あの広大な鳥屋野潟とその周辺を排水させて田畑に変えることは大変だと圧倒されながら読んでいたら最後に、遊水池としても使われていることが書かれていました。

鳥屋野潟流域のほとんどが海抜ゼロメートル地帯であり、洪水時には重要な貯留施設となります。現在、治水目的の湖岸堤の設計が行われています。

 

あちらとこちらの葛藤を調整しながら、将来への基盤を造る。

それが公共事業なのかもしれません。

 

 

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