西鉄天神線の車窓からのクリークの風景に圧倒され、大善寺駅手前あたりから少し高台になり都市部の風景に変わりました。
西鉄久留米駅で下車し、JR久留米駅からまた鹿児島本線で小倉へと向かう予定です。
地図では西鉄久留米駅とJR久留米駅は1.5kmぐらい離れていますが、歩けないほどではなさそうに見えました。
その間に水路が描かれているのでそれに沿ってJR久留米駅に行き、筑後川がつの字に曲がったところにある久留米城まで足を伸ばしてみようと、計画はどんどんと膨らみました。
西鉄久留米駅で下車した時には蒸し暑く、雨がポツポツ降ってきたのでバスに乗ることにしましたが、バスでも10分以上かかる距離だったので歩かなくて正解でした。
とても久留米城までは行けそうにもないので、JR久留米駅周辺をぶらりと歩くことにしました。
「久留米を歩く」、タイトルはちょっと大げさですね。
*「ゴム産業発祥の地」*
駅東口に出てみると「直径約4m・重さ5tのタイヤ」という大きな「建設・鉱山車両用タイヤ」が駅前広場にかざられていました。
久留米から世界へ ゴム産業発祥の地
日本のゴム産業の発展と技術革新に貢献
久留米市は、ゴム産業を中心に栄え、現在も多くの関連企業が立地しています。その代には、久留米市を発祥の地とするムーンスターやアサヒシューズ、ブリヂストンなどの企業があり、それら企業は日本のゴム産業の発展と技術革新に貢献してきました。
久留米市でのゴム産業の始まり
1873年(明治6年)、倉田雲平は半物と軽視されていた足袋の製造に注目し、「つちやたび」(現在は「ムーンスター」)を創業した。1892年(明治25年)、石橋徳次郎が創業した立物屋「志まや」を石橋重太郎・正二郎兄弟が継承、石橋兄弟は足袋専業に踏み切り、足袋を均一価格で販売するなど当時としては斬新なアイデアで成長し、1918年(大正7年)に「日本足袋(現在は「アサヒシューズ」)を設立した。
1923年(大正12年)に「日本足袋」と「つちやたび」は底にゴムを貼った地下足袋の販売を開始し大きく飛躍。両社はゴム製造業へ移行する。その後、ゴム靴の生産や海外への輸出を始め、その成長は目覚ましいものであった。
1930年(昭和5年)、「日本足袋」は自動車用タイヤの試作に成功。翌年、石橋正二郎は久留米市に「ブリッジストンタイヤ(現在は「ブリヂストン」)」を創立し、その直後より自動車用タイヤの輸出を開始した。
「足袋から地下足袋、ゴム靴そしてタイヤの生産」
目の前にある巨大なタイヤを前に、この一世紀は本当に驚異的に変化する時代だったのだと理解できました。
「ブリヂストン」は「石橋」を英語にした日本の会社だというトリビアは、半世紀前の小学生でも知っていました。
そして当時の子どもたちは月星シューズ(ムーンスター)やアサヒシューズを履いていたのでした。
一度行ってみたいと思った久留米でしたが、この駅前の説明とタイヤを見ただけでもきた甲斐がありました。
JR久留米駅にはブリヂストンの工場が隣接しているのですが、Wikipediaの久留米駅を読むと最初はこの辺りが街の中心だったようです。
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