落ち着いた街 24 路面電車の延伸計画がある

熊本市の地図を眺めていると、路面電車があることがすぐにわかりました。

通常の鉄道とは違い幹線道路の上にあるので、ところどころ直角に曲がるように描かれています。

 

もし雨脚が強くなったら路面電車に乗って往復するだけでもいいかと思っていました。

半世紀以上前の子どもの頃に、池袋のあたりだったと思うのですが路面電車に乗る機会が時々あったのであの雰囲気が今でも好きです。

ですから遠出先で路面電車がある地域ではできるだけ乗るように計画しています。

 

水道町でバスを降り、白川を越えて停留所へと向かいました。

その間にもあのガラガラと独特の走行音をさせながら、市電が走っていきました。

新しい車両と古い車両と、デザインもいろいろです。「子どもの頃に乗ったような車両に当たりますように」と思いながら待っていると、大当たりでした。

黒光した年季の入った木の床で、窓もえいッと思いっきり力入れる必要がありそうなもので、手すりも運転席も吊り革も半世紀前にふと戻った気分です。エアコンではなく天井の扇風機でした。

Wikipediaの説明を見ると1200型のようで、1958年ごろに造られた車体でしょうか。

 

九品寺交差点から水前寺公園前までのわずかの区間でしたが、路面電車からの風景は格別ですね。

 

 

*大正時代に運行が始まる*

 

Wikipediaでは「明治末期より大日本軌道が運行されていたが、蒸気軌道のため評判はよくなかった」と書かれていますが、明治時代には「機関車からの飛び火による沿線火災や小火が多発」していたことを最近になって知りました。

市民から電車化の要望が出てくるようになり、市当局では1917年(大正6年)に「電車期成会」を結成し、翌年には同じ九州で当時既に電車が運行されていた福岡、長崎、久留米、鹿児島の各都市へ視察団を派遣した。こうした結果を踏まえ、熊本市では大日本軌道と電車化についての交渉をすることとなった。

 

その後、不況で計画は中断したものの、1924年大正13年)に開通した歴史があるようです。

電化への社会の熱い雰囲気が動かしたのでしょうか。

 

それにしても江戸時代には考え付かないような蒸気機関車が明治時代にできたことだけでもすごい変化なのに、1882年(明治15年)に「市民がはじめて電灯を目にした」そのわずか35年後には「電車化」を求めるようになるのですから驚異的な変化の時代ですね。

 

そして技術的なことだけでなく、同じ目標に向かって結束して活動するという意識が社会の中にどのように広がったのでしょうか。

 

 

*存続が決議されただけでなく、なお延伸計画がある*

 

戦後はさらに自動車が大きく社会の構造を変え、電化期成同盟によってようやく電化が実現したものの、鉄道自体の存続が難しくなった七尾線のように各地で鉄道の存続が難しい時代になりました。

 

熊本市電も廃止の動きがあったようです。

熊本市電は、2014年(平成26年)時点で5路線2系統が存続しているが、かつては全線を廃止する計画があった。熊本市電は1960年代(昭和35-44年)頃から他都市の路面電車と同じく採算悪化に悩まされ、5路線2系統を残して廃止された。

さらに残る5路線2系統についても1980年(昭和55年)前後をめどに廃止し、代替としてモノレールを建設する構想もあったが、市民から存続を求める声が上がったことや、オイルショックによる車依存の見直し等により、熊本市議会により存続が決議された。

(「全面廃止計画」)

 

40年前の決議のおかげで、私も懐かしい雰囲気の市電を堪能できました。

でもどこも鉄道の存続は厳しい雰囲気の昨今ですから、いつまでこの風景があるのだろうとWikipediaを読み進めていくと、「熊本市は、2016年(平成28年)9月9日までに、市電の延伸を検討しているいくつかの計画路線」と書かれていました。

 

住民の声を聞き、同じ目標に向かって結束していくような社会の雰囲気が作られているのでしょうか。

半世紀とか一世紀とか、時間をかけたものが続いているようなそんな印象を受ける街でした。

 

 

*おまけ*

 

水道町停留場に「なぜ水道町なのか」の答えがありました。

駅名の地名にちなむ。江戸時代は武家屋敷であったため町名はなかったが明治時代に名付けられた。白川(三宮神社横の小磧(おぜき))から坪井川厩橋)まで水道が掘られており、ここでL字型に曲がっていたことにちなむ。

 

 

 

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