米のあれこれ 52 本宿から新宿へ、大谷津たんぼを訪ねる

小野川放水路から分かれた小野川本流はぐいと西へと向きを変えて、佐原小学校のあたりで北へと向きを変えて「小野川沿いの歴史的街並み」の続く場所へとながれているようです。

 

小野川右岸は川ぞいの道に昔からの水田や家が散在して、70年代から80年代ごろに建てられたと思われる家もけっこうありました。

しばらくすると小野川親水公園があって両岸に遊歩道が始まり、小野川の水面を眺めながらゆったりと歩けるようになっています。

石樽山が近づき左手は建物が少なくなりました。「学校橋」のあたりで遊歩道が工事中になり、一旦小野川から離れると古い工場がありました。その間の細い道を入ると、小野川沿いの歴史的街並みのエリアに入りました。

どこからかあんこを煮る香りが漂っています。

 

9時すぎでしたがけっこう観光客が歩いていて、伊能忠敬記念館も途切れることなく入場者がいました。

念願の伊能忠敬記念館の展示は圧巻で、今から220年も前に描かれた地図の正確さにしばらく立ちすくんでいました。

川向の伊能忠敬旧宅を訪ねたあと、佐原駅周辺案内図で見つけた場所へと向かいました。

 

 

*大谷津たんぼ*

 

最初の計画では、水田地帯だろうと想像していた本宿耕地のあたりからぐるりと小野川をまわって伊能忠敬記念館を訪ねられれば目的達成だったのですが、佐原駅周辺案内図にもう一つ大きな水色の場所に「大谷津たんぼ」と書かれているのに惹きつけられました。

谷津とか谷戸と聞いたら、この目で確かめたくなりますからね。

 

伊能忠敬記念館を出るとその裏手に水路があり「樋小道」として歩道になっていましたが、それがその大谷津たんぼからの馬場堀跡のようです。

途中で民家の敷地へと流れていたのでたどるることはできませんでしたが、迂回して下新町通りをまっすぐ山へ向かって歩きました。その両側の家々が、また重厚な昔ながらの造りのまま残っています。

山にぶつかったところを北へと曲がると、また先ほどの水路につながりました。

そこから家々の間を抜けると、目の前に原っぱが開けました。その間を水路が通っています。わずかですが水が流れていて、山のどこからか湧き出てくるのでしょうか。

現役の田んぼとして使われている場所もあるようです。

 

どなたがお米を作り、どんな歴史があるのでしょう。

 

あの大谷津たんぼを思い出しながらWikipedia伊能忠敬を読んでいたら、「佐原時代」にこんなことが書かれていることに目が止まりました。

佐原の町は昔から大雨が降ると利根川堤防が決壊し、大きな被害を受けていた。いったん洪水が起きてしまうと田畑の形が変わってしまうため、測量して境界線を引き直さなければならない。忠敬は江戸に出る前から測量や地図作成の技術をある程度身につけていたが、それはこうした地で名主などの重要な役についていたという経験によるところが大きい。

 

田んぼと伊能忠敬の測量がつながりました。

 

 

 

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