落ち着いた街 30 「えどさき街並みの歴史」

霞ヶ浦周辺の地図を眺めていてふと目に入った江戸崎でしたが、畳敷のバス待合所五百羅漢から水辺の公園のあたり、そして稲波のあたりの干拓地と昔からの集落とが混じり合った風景はなにかひかれるものがありました。

もう少しこの街の歴史がどこかにないかと検索していたら、「えどさき笑遊館」というサイトに「えどさき街並みの歴史」がありました。

 

「えどさき街並みの歴史 その1 江戸崎形成期」に、江戸崎の地名の由来や街ができた頃の説明があります。

「江戸崎」という地名の由来について

諸説ありますが、例えば「江戸」(現在の東京)の地名の由来は、「江」は川あるいは入江とすると「戸」は入口を意味することから「江の入り口」に由来したと考える説が有力とのこと。同じような地形を有する江戸崎も同じような由来により呼ばれたという説。

しかし、「江戸崎」と「江戸」とは、霞ヶ浦利根川の水運を通じてつながっていたものの、名称の由来における関係の確証はありませんが、1590年に江戸崎城の新城主・芦名盛重から江戸崎不動院に迎え入れられた「天海上人」が、不動院の住職として在職中に徳川家康と出会い有力ブレーンとなり、後に江戸の街を起こす際に江戸崎の街を基にしたと伝えられていることから「江戸」よりも「江戸崎」の名前の方が歴史が古いのかもしれません。

そしてもう一説は、霞ヶ浦からの江戸崎への入り口には、昔「榎が浦(えのきがうら)」という地名の浦があり、そこへ突き出ている「崎」、つまり「榎の崎(えのさき)」がなまって「江戸崎」となった説等があります。

(強調は引用者による)

 

 

地図で江戸崎が目に入った時、「江」や「崎」がつく地名から水を連想するのに内陸部にあるのはなぜだろうと気になっていた答えが少しずつ見えてきました。

江戸崎城の開城

嘉慶1年(1387)、美濃(岐阜県)出身の武士で清和源氏土岐一族である土岐原氏が、室町幕府関東管領上杉氏の求めにより、江戸崎の地に入り江戸崎城を築きました。土岐原氏は、稲敷地方一帯を約200年間にわたり統治し、江戸崎まちなか地区の原型を作った人物です。

土岐原氏が、海夫の力を利用し、霞ヶ浦における海賊取締りの任務を任されていたことは、行方市の鳥名木文書によって明らかとなっています。これらのことなどから、琵琶湖〜吉野〜熊野灘、美濃〜長良川〜伊勢湾といった水のネットワークの存在が浮かび上がり、それは、江戸崎の最も華やかな近世の時代にもつながっていきます。

(強調は引用者による)

 

「琵琶湖〜吉野〜熊野灘、美濃〜長良川〜伊勢湾といった水のネットワーク」、つい最近まで、つい最近というのはほんの一世紀ほど前までの日本も、こうした海や川を自由に行き来する人によって人や物が移動して文化が混じり合っていたことを考えると、なんだかそのダイナミックさに感動します。

 

*「水辺に栄えた江戸崎」*

 

「歴史2〜江戸崎発展期」に水運で栄えた頃の様子がまとめられていました。

 

水辺に栄えた江戸崎

江戸崎まちなか地区が栄えるようになり、豪商・豪農など広い意味での町民による独特な文化が花開いたのは、近世のことでした。水辺には、川船を用いて米や醤油など物資が集積し、運び出される港と、周辺の都市的機能を合わせもった「河岸(かし)」が多くできました。

江戸崎の人口は、このころ「戸数100戸を超える」という説から類推すると約3,000人程度だったと思われます。水運は、江戸時代初期に利根川の流れが銚子口に瀬替え(東遷事業)されたことから、江戸崎入り〜霞ヶ浦利根川〜江戸川〜江戸という内陸運河ができあがり、このルートで大量の物資運搬を安定して行うことが可能となったのです。

 

「まちなか地区」は、あのバス待合所やお菓子屋さんがあったあたりのようです。

そして稲敷市リーバーサイド公園のあたりが「河岸」で、絵図を見るとあの桜並木のあった支流はもっと太く描かれています。

小野川も干拓前はおそらく川幅が広く、霞ヶ浦へと流れていたのでしょうか。

 

 

*「交通機関の移り変わりと街なかの進化」*

 

水運から陸運へ、江戸崎の変化が「歴史3〜江戸崎の拡散・再興期」にまとめられていました。

 明治初期に開通した常磐線は、東京都茨城県を結ぶ交通手段の主流となり、江戸崎の公共交通も常磐線土浦駅、荒川駅へのバス路線が主となっていきました。明治23年には利根川水運で蒸気船「通運丸」が就航しましたが、徐々に陸上交通機関へ転換していきます。

 江戸崎まちなか地区に設けられた江戸崎駅には、最盛時、トレーラーバスに満員の客を乗せ、土浦〜佐原間を往復しました。小野川を渡る橋梁として大正初年に「大正橋」が完成したり、「通運丸」の寄港地だった「鍋屋回漕店」が陸運業に転じ、「江戸崎自動車商会(現在の江戸崎合同ハイヤー)」を開いたりしたことは、交通機関の転換点の象徴事象ともいえます。

 鉄道がないのに「駅」の名称が掲げられているJRバスターミナル。当時は切符売り場などがある駅舎が隣接し駅員が常駐していたが、現在は待合室となっている。旧国鉄の自動車路線の「自動車駅」を継承している。土浦、荒川沖、佐原などの近隣地方都市の交通結節点(ハブ)機能を持つ「旧稲敷郡」の中心バスターミナルである。

 

利根運河の歴史にも重なりますね。

 

あの畳敷のバス待合所はひっそりしていたのですが、各地へのコミュニテバス路線が何本もあるらしく、その時刻表が置かれていました。

今も「駅」のようなものかもしれません。

 

 

素通りしてしまえばどこも同じような街の一つでしかなかったかもしれませんが、実際に歩いてみるとそれぞれの歴史の違いを感じ、こうした記録を読む機会につながっていくのが散歩の醍醐味ですね。

そしてこんなに歴史がしっかりとまとめられていたおかげで、あの日に見た風景がまた違って見えてきました。

 

 

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