米のあれこれ 54 新田開発と雁堤(かりがねづつみ)

帰宅してから雁堤について検索しました。

 

静岡県の公式ホームページには、その歴史がまとめられていました。

雁堤は、江戸時代に富士川の洪水対策として築かれたもので、富士川左岸、県道396号線(旧国道1号線)の北側に位置しています。江戸時代前期までの富士川は、加島平野(現在のJR富士駅周辺の一帯)を蛇行して流れ、現在の田子の浦港附近で海に流れ込んでいたと考えられます。当時の富士川には堤防もなく、洪水により、周辺農地はたびたび被害を被っていました。

戦国時代が終わり、水田の開発が活発に行われましたが、水田を富士川の洪水から守るため、大規模な堤防を造成する必要があり、堤防の造成に取り組んだのが、豪族の古郡氏でした。古郡氏は、親子三代が50年余りに及ぶ工事の末、延宝2年に全長2.7kmに及ぶ雁堤を完成させ、加島五千石と呼ばれる水田を造成しました。その後、この堤は富士市指定史跡となり、現在の規模は延長2.7km、高さ5.5~7.3m、馬踏33~46mです。雁堤の名称は、堤の形が、雁の群が空を飛んでいる姿に似ていることから付けられました。

 

現在の地図ではその「雁の群が空を飛んでいる姿」はわかりにくいのですが、堤防にあった案内板の写真を見ると、少し上流の東名高速道路の向こうがわに「備前堤」がやはりL字型にあり、そしてこちらがわが「新備前堤」のL字の堤防で、全体はWに見えるようです。

 

*伝統的河川工法*

 

国土交通省関東地方整備局甲府河川国道事務所のホームページに、「伝統的治水施設の保全と整備」があり「現在の雁堤を見る」に地理的、技術的なことがもう少し詳しく書かれていました。

 

 雁堤は富士川が山間部から富士平野に出たところに築かれています。富士川の計画高水量はここでは16600m3/s、河床勾配は1/230となっています。

この流量は実に我が国で第3位にランクされる規模です。雁堤には膨大な大洪水の流量を安全に川の中で流す工法が随所にあります。未だに私たちが気づかない工法がもっとあるかもしれませんが順を追って現在の姿を見ていきましょう。

(強調は引用者による)

 

 雁堤はいくつかの構造物と自然地物の総合体なのです。これを大きく分けると1.堤防、2. 出し水制、3.牛枠水制、4.自然地物の4つになります。図ー9が雁堤の現況です。この図を参照しながら説明を見てください。

先ず堤防ですが、(1)は雁堤の本堤で、(2)は90間堤防といわれる導流堤です。次は出し水制ですが、構造的に亀甲出しに属するものです。(3)が新1番出し、(4)が1番出し、(5)は2番出し(6)が3番出しでし。構造的に土堤出しに属するものとしては(7)の備前堤、(9)の柳堤があります。次に牛枠水制ですが(10)がコンクリート中聖牛が敷設してあります。次に治水効果を積極的に期待した自然地物としては(11)の岩本山の岩、(12)の水神の岩、そして対岸の(13)が泥が淵です。さらに雁堤が治水の守護として地元の人々から絶対に信頼され敬慶の念をもって崇められている根源として鎮座しているのが(14)の護所神社と(15)の水神社です。

 この雁堤は駿河藩の代官も務めた事のある地元の豪族・古郡氏の三代にわたり、50余年の歳月と膨大な経費、そして治水の知恵と工夫を結集して江戸時代の初期に築造されたものです。

 

富士川上流の釜無川の信玄堤を見に行って以来堤防の工法について読む機会が増えてもまだまだチンプンカンプンですが、「備前堤」に引きつけれられて全文記録することにしました。

利根川東遷事業でも「1614年 備前堤(現・埼玉県蓮田市桶川市)を築造する」とありましたが、またどこかで繋がることがありそうですからね。

 

この記事の最後に雁堤の堤内でしょうか、湛水したことがあったことが書かれていました。

昭和57年8月、台風10号による洪水で東海道本線が落橋する被害がありました。

また、この時雁堤に洪水が一部湛水しました。

 

水神社の石碑に「爾来長堤決潰することなく水流定まりて」とありましたが、湛水することはあっても堤防そのものが決壊したことはなさそうです。

現代の技術者の方に「未だに気の付かない工法がもっと有るかもしれません」と言わしめるような堤防が17世紀に造られて以来、この富士市周辺が守られ水田地帯へと変わった歴史を知ることになりました。

 

 

そして歴史にもしはないのですが、もしこの雁堤がなかったら浮島沼が水田地帯に変わることも難しく、雁堤の2キロほど下流を走る東海道新幹線はどこを通ることになっていたでしょうか。

 

 

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