散歩をする 419 富士から岐阜羽島の薩摩工事義歿者の墓へ

やり残しの宿題を散歩する1日目の宿泊地は富士市に決めました。

1970年代、このあたりを東名高速道路で通過するときには富士山の裾野が工場からの排煙で真っ白で、車の窓を閉めていてもその刺激臭が入ってくるので息を止めていた記憶があります。

半世紀後に、まさか湧水を訪ねてそこに宿泊したいと思う時代が来るとは想像もしていませんでした。

 

雁堤を訪ねて柚木(ゆのき)駅に戻った時にはすでに24,000歩になっていてこのままベッドに倒れ込みたいくらいでしたが、あと2kmほど歩かないとホテルに辿り着かないようなちょっと無謀な計画でした。

 

JR富士駅北口へと降りると、西側が商店街、東側には広大な工場があります。製紙工場をはじめとして工場がすぐそばにある生活はどうしても私の生きてきた時代と重なって公害に視点がいってしまうのですが、そこに住む方々には大事な生活の糧を得るための歴史である雰囲気が前回の岳南鉄道に乗って工場と湧水巡りをした時に少し理解できるようになりました。

 

王子マテリアルの大きな敷地沿いに北へと歩くと、敷地内に貯水池があり鴨がのんびりと泳いでいるのが見えました。角を曲がると地図に描かれていた水路があり、この貯水池への水路だったようです。

幅数メートルもある立派な水路で、工場のそばの水路だから汚れていて味気ないだろうぐらいに思っていたところ、想像以上に美しい水が流れていました。

 

水路に沿って歩いていくと、旧東海道一里塚と書かれた石碑が道端にありました。そばを通る県道396号線は現在は旧国道1号線東海道)だったようです。

その県道396号線があの柚木駅から雁堤の近くを通っていたことと繋がりました。

 

柚木駅を検索していたら、その石碑あたりに元々は身延線が通っていて「本市場駅」があったこと、1969年に大きく線路を西へと移転して柚木駅へと変わったこと、「身延線旧線跡は富士緑道(遊歩道)として整備されている」とあり、地図で確認すると私が水路と石碑に気を取られていたその反対側に遊歩道があったようです。残念、こうしてまたやり残した課題が増えていきますね。

 

そこから北東の中央公園のあたりを目指して歩くと、元々は水田だっただろうと思われる場所に新しい住宅が立ち並び、「古新田橋」の近くにひと区画だけポツンと水田が残っていました。その向こうに裾野まで富士山が見えました。

青葉通りは交通量も多く、沿道におしゃれなお店もあり、JR駅前の旧市街に対して新市街のような雰囲気です。

水路が気になっていたのでそこを目指すと、地図にはない公園となにやら水門らしき場所がありました。

近づくと「中宿河原用水3号分水門」で、先ほどの現役の田んぼへもここから水がいくのかもしれません。

どんな水田の歴史があったのでしょう。

 

青葉通りへと出るとその北側に大きな公園が見え、手前に大きな橋がかかっています。

あともう少しです。

川は潤井川で、あの雁堤へ行く途中の用水路に取水している川で新幹線では工場群の間のあたりでこの川を越えて田子の浦へと流れています。

真冬だというのに水量も多い川で、見ていると足がすくみそうでした。

この辺りではどこからも雄大な富士山が見えます。新幹線の車窓からだけではわからない街の風景を実際に見ることができました。

 

夕飯を食べてからホテルに到着したら、29,197歩になっていました。ホテルの窓から工場の夜景と田子の浦のあたりを通過する新幹線が見えました。

 

 

岐阜羽島木曽三川治水工事の歴史を訪ねる*

 

2日目の夜中に目が覚めて窓をのぞくと、工場から水蒸気が絶え間なく出ているのが見えました。工場の夜景もまた美しいものですね。数年前には考えられない自分の気持ちの変化です。

 

この日は新富士駅からこだまに乗って岐阜羽島へ向かう予定ですが、朝7時31分に中央公園の前から新富士行きのモーニングシャトルというコミュニティバスがあることを知りました。

快晴ですが耳が切れそうに寒い中、「バス」を待っていたのですがなかなか来ません。間に合わなくなるといけないのでちょうど来たタクシーに手を挙げたら、それが「モーニングシャトル」でした。バスかと思ったら相乗りのタクシーだったようです。

 

いつも通過するだけだった新富士駅に初めて入りました。

遠出をするようになって、東海道・山陽新幹線で途中下車したことがない駅も残りわずかになりました。

 

いつかは岐阜羽島駅を拠点に木曽三川の歴史を辿る計画もあるのですが、今日は約45分で駅周辺だけを歩く予定です。

9時53分岐阜羽島駅に降りたら思いのほか風が冷たく、ちょっと気持ちがくじけそうになりました。長良川が近いので川風でしょうか、それとも伊吹山の方から関ヶ原を抜ける風でしょうか。

 

長良川の堤防を眺めるのはまたいつかということにして、駅から東へ数百メートルほど歩いたお寺にある薩摩工事義歿者の墓を訪ねることにしました。

 

子どもの頃からの記憶に重なるように、このあたりは水田地帯がまだ残っています。

水田だった場所に建てられた住宅地にある氏神様の横を歩いていると、地元の方が農機具について語りあっていました。祖父の姿に重なり、祖父母の家の周囲を歩いているかのような錯覚に陥りました。

 

しばらく歩くとますっぐな用水路があり、その脇に清江寺の庭木が見えてきました。

岐阜県羽島市指定史跡

薩摩工事義歿者 瀬戸山石助 平山牧右衛門 大山市兵衛之墓

 

   羽島市江吉良町 清江寺

 

 江吉良町の清江寺にまつる三義士はいずれも濃尾平野の治水工事のため、宝暦四年幕命を奉じて遠く薩摩から当地に来住し、一の手出張小屋(下中町石田)に入り、木曽川の改修と逆川の締切りの難工事に当たっていた。

 第一期工事は大体三月中旬早くも完成したが、間もなく雨期に入ると共に密命された人々の破壊活動が始まったので、これを根絶するためにやむおえず逆川堤上において斬殺した。これが幕府の忌諱にふれて自責の念にもたえず先ず瀬戸山石助が八月九日割腹し、続いてその初七日の八月十五日に平山牧右衛門氏、さらにその初七日の八月二十一日に大山市兵衛氏と相次いで自刃し相果てた。

 清江寺の住職鉄船師は深く三義士の死をいたみ、禁を犯してねんごろに寺内に葬った。

 尚、瀬戸山・平山・大山の三義士はそれぞれ次の辞世を残している。

 

◯今茲(ここ)に死する身こそはくつれども

  我が誠心は千代に伝えも  瀬戸山石助

◯膽(たん)をなめ薪に寝(いね)てなしたれど

  繕(つくろ)へざるは財布尻なり  平山牧右衛門

◯溺る身も何時(いつ)の世にかは浮かびなん

  鉄の御船のろかいたよりに  大山市兵衛

 

昭和六十三年十一月再建  羽島市教育委員会

 

 

はるばる木曽三川の治水工事のために薩摩から手伝いに来て、治水工事が終わると、莫大な工事費用と数多くの藩士が亡くなったことの責任を取り自害するという理不尽な時代でした。

 

雁堤の人柱といいこの薩摩工事義歿(ぼつ)者といい、川についてたどるとなんと重い水の歴史の上に生きているのでしょう。

 

明治時代に木曽三川分流行工事が行われ、現代はわずか数分ほどで木曽川長良川そして揖斐川を渡り、美しい水面を眺めることができるようになりました。

 

ああ、やはり次回は岐阜羽島駅周辺をもっと歩きたい。

手や顔が凍えながら、駅へと戻りました。

 

 

 

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