水のあれこれ 101 山梨の水との闘い

竜王駅に置いてあった信玄堤ガイドブックの「治水の構想」に5つのポイントが書かれていました。

1. 釜無川を氾濫させないための堅固な堤防を造る。

2. 大洪水でも堤防が決壊しないようにするために堤防に懸る水の勢いを減らす。

3. 釜無川の左岸に御勅使川(みだいがわ)の激流が突き当たらないような安定策をとる。

4. 釜無川と御勅使川により流れ下りてくる多量の土砂への対策をする。

5. 治水施設の機能を維持し治水の重要性を領民に周知させるための方策をとる。

 

以上のことを解決するのは大変な苦労と困難がありました。 

 

武田信玄の時代に始まったこの治水対策は、江戸時代から明治時代へも引き継がれ、「現在のものは、明治中期に大改修され、おおむね直線になっていますが、一部に往時の原型をとどめています」とあるように、今、私たちが思い浮かべる「堤防」の姿になるまで400年ほどの歳月をかけたものだったようです。

 

甲府盆地を読むと、「中南部の低地はかつて両河川の氾濫源であり」「地質学的には地底湖説もあり」とあります。

水害と聞いても山梨県のことを思い浮かべたことがないほど、洪水とは無縁の地域だと思っていました。

 

*恩賜林謝恩碑*

信玄堤を実際に訪ねてみて良かったと歴史に圧倒されながら、甲府へ戻りました。

身延線に乗るまで少し時間があったので、駅の目の前にある甲府城跡を訪ねることにしました。

そこには高い石碑が建っていて、このような説明がありました。

この謝恩碑は、明治四十四年三月二十一日、山梨県内にあった皇室の山林を明治天皇から本県にいただいたことを記念して建てられたものです。 

明治時代に甲府盆地周辺の山で森林の乱伐により水害が頻発したため、治水のためには治山が大事であることを県民に伝え知らせるために建てられた旨が書かれていました。

 

帰宅して検索すると、謝恩碑としてまとめられていました。

この記念碑は明治40年の大水害など度重なる水害によって荒廃した山梨県内の山林に対し、明治天皇より山梨県内の御料地の下賜(かし)が行われたことに対する感謝と水害の教訓を後世に伝えるために1922年(大正11年)に建設された。 

 

「御料地の下賜の経緯」にはこう書かれています。

山梨県の明治時代は、頻発する水害との戦いの連続であった。

 

お雇い外国人として1879年(明治12年)に来日し、河川などの治水工事の指導に携わったというローウエンホルスト・ムルデルは、1882年(明治15年)に発生した塩川・釜無川流域などの山梨県内の水害の原因について、「凡 テ河ノ禍ノ主因ハ第一上流及其支流ノ山ニアリ」と指摘している。

 

ムルデルによる指摘のとおり、水害が頻発した背景には、開墾や工業化による山林の破壊、燃料とするための山林の乱伐の進行があった。これは幕藩体制の崩壊と明治新政府への政権交代の結果、治山がおろそかになって山林の荒廃が進んだことも大きく影響していた。

 

1909年(明治42年)7月から翌1910年(明治43年)にわたって、山梨県下 の河川主要流域ごとに林野・河川・および耕地等の現況調査が実施された。調査の結果、県内の林野のうち9万ヘクタールあまりの荒廃した林地が存在していることが判明し、主要河川の水源地付近の林地ごとに多量の土砂が押し流されることがわかった。その中でも入会御料地の荒廃が最も甚だしかった。

 

1944年(明治44年)3月11日、明治天皇は度重なる山梨県の水害を憂い、県内にある入会御料地を全て県有財産として下賜した。 

 

ムルデルの水害に関する調査から60年、現況調査から三十数年を経て、周囲の山々を含めた治水治山が始まったのが、およそ80年前のことだったようです。

 

さらに治山治水に加えて、その後山梨県では水を介した風土病との闘いがありました。

あの釜無川の信玄堤からみたのどかな風景からは想像ができない、一世紀という歴史の意味を考えさせられます。

 

1950年(昭和23年)の第一回全国植樹祭は、この山梨県で行われたそうです。

植樹祭はニュースで耳にしても、なにか形式的なものと受け止めていましたが、竜王甲府を歩いてみて少し身近なものになりました。

 

 

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