米のあれこれ 60 旧吉野川と今切川の水田や蓮田

ぜひ見てみたいと思っていたJR鳴門線の車窓からの水田や蓮田、そして鯛の浜の水神社を訪ねることができて満足して徳島駅行きのバスに乗ると、今切川に堰があるのが見えました。

 

帰宅してから旧吉野川の歴史をたどっていたら、あれが今切川河口堰だとつながりました。

 

吉野川河口からわずか数キロのところで今切川と分かれ、その二つの川に挟まれた場所にも複雑に支流や運河のような川あるようですが、旧吉野川と今切川のそれぞれに河口堰がつくられて川の水と海の水が混ざらないようにしているようです。水道水、工業用水とともに農業用水について説明がありました。

吉野川、今切川から取水された水が農業用水として利用されている田畑の面積は3,700ヘクタールあります。ここでは、米、さつまいも、れんこん、にんじん、梨等の品質の高い農作物が生産されています。

(旧吉野川河口堰管理所「施設の紹介」より)

 

3,700ヘクタール。

ふだんあまり面積を意識していない生活なので数字だけではどれくらいの広さか検討がつかないのですが、実際にまわると「広大な」農地でした。

 

河口堰とともに沿岸に「塩分観測所」「水位観測所」などがあるようです。

 

 

*塩害による水争い*

 

この堰ができるまでの経緯が、旧吉野川河口堰管理所のサイトの「河口堰ができるまで」に書かれていました。

 

「旧吉野川・今切川の水争いに尽力した三木與吉郎(第12代)」

 

功績

 旧吉野川・今切川は、少雨などにより河川の流量が減少すると海水の俎上を抑圧する力が衰えることから、両河川流域の農地の塩害による被害はしばしば深刻なものとなった。特に1930年(昭和5年)の夏は日照り続きで河川の流量が極度に減少したことから、大塩害が発生したが、この大塩害の際、旧吉野川と今切川の分派地点となる三ツ合堰において、旧吉野川沿川農民と今切川沿川農民との間で流血の惨事が発生するなど、水争いが大問題となった。

 このような水問題を解決するために、両川の河口に潮止樋門を建設し、用水供給を確保することが急務とされた。

 三木與吉郎(第12代)は、衆議院議員貴族院議員を歴任していたところ、これら樋門の建設のため、1934年(昭和9)年に「吉野川普通推理組合(後の吉野川土地改良区)」を結成し、地元から国・県に樋門建設の要望を提出した。その一方で、不足する建設費を自らの莫大な寄付金でまかなうことによって建設事業を推進した結果、まず第一期工事として今切川潮止樋門(今切川ダム)が昭和11年に完成した。

 ついで第二期工事として旧吉野川潮止樋門(松茂ダム)の建設にとりかかったが、道半ばで逝去することとなる。

 なお、旧吉野川潮止樋門の着工後、1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発、1941年(昭和16年)には太平洋戦争に突入し、建設資材の高騰や工事現場への空襲などにより工事は大きな痛手を受けたが、終戦後工事が再開され、1949年(昭和24年)に艱難辛苦を乗り越えてようやく完成を見た。

 

この日ぐるりと回った地域が、この塩害防止のための二つの樋門により農業用水を確保できるようになった地域だったようです。

「禾黍油油」を思い出しました。

水争いというのは、水の過不足だけでなく塩害に対しても起きていた地域があったのですね。

 

 

*「旧吉野川潮止樋門竣工の碑文」*

 

 

現在の旧吉野川河口堰のそばに三木與吉郎(よきちろう)氏の胸像とともに石碑があるそうで、そこに書かれている文の訳文がありました。

板野郡東端にある吉野川沿岸の水田は古来より塩害による被害が甚しかった。松茂村の豪農出身で、貴族院議員に選出され正六位勲二等を受けた三木與吉郎氏は、かねてより塩害救済のためにダムの築造を計画し、しばしば政府及び県に陳情を行うなど長年にわたり奔走するだけでなく、この事業のために巨額の私財を投じた。氏の熱意は遂に当局を動かすところとなり、まず今切川ダム(今切川潮止樋門)が完成、さらに昭和24年10月に松茂ダム(旧吉野川潮止樋門)が竣工し、これにより農地二千町歩(19.8平方km、東京ドーム422個分)が塩害から守られることとなった。不幸にも氏は亡くなってしまい、その完成を見ることはできなかったが、生前の偉功は輝かしいものである。吉野川普通水利組合は、農民の感謝の証として、この胸像を建てて氏の遺徳を永遠に称える。よって、氏の業績を略述する。

 

 

 

「米のあれこれ」まとめはこちら