米のあれこれ 31 「禾黍油油」

小貝川の旧河道の堤防とに挟まれた場所にある川口公園は水田に囲まれていました。

田植えから稲刈りまで、どんなに美しい場所だろうと、11月中旬のちょっと茶色い風景の中で想像しました。

 

ここからひとつ手前のバス停まで歩いてまたコミュニティバスに乗る予定でしたが、上流側の水田地帯の中にポンプ場のような建物が見えました。

田んぼの端に水を入れるためのパイプがあるので、そのための施設かもしれません。

 

近づいて見ると、大きな石碑がありました。

「禾黍油油」と書いてあるのが見えました。

 

「黍」はトウモロコシかなと想像がつきましたが、「禾」や「油油」はなんだろう。

学生時代に習った漢文もこの程度ですね。

さらに近づいたら「かしょゆうゆう」と読み、「稲や作物などが、つやつやと勢いよく成長するさま」とあり、「禾」は稲や麦などの意味でした。

 

 

さらに大きな石碑に、この地域の歴史が書かれていました。

県営土地改良総合整備事業川口地区

 本地区はつくば市の西部に位置し、秀峰筑波山を望む一級河川小貝川流域東部に拓けた大字上郷、同田倉の一部に亘る水田の受益地である。かつて当地は大湿地帯であり、田舟等を利用しながら作業し、道路も狭く不整形な水田が散在し、自然の利水により農耕が営まれていた。又、小貝川への自然排水の為、大雨による湛水被害や日照り続きによる旱害など自然災害に幾度となく先人たちはさらされてきた。

 この現状を一掃すべく、昭和三五年に川口土地改良区が設立され、昭和三九年には第一次農業構造改善事業により区画整理、用排水の整備が実施された。続いて昭和五〇年に上原地区、昭和五三年に長峰地区が整備され、川口土地改良区に編入された。

 しかしながら、近年用排水施設の老朽化が進み、維持管理に多大の労力を要し、大雨等の被害も相次いだ。又、深井戸に頼った水量も年々減少したことから、水源の安定供給を図るため、霞ヶ浦用水の補給が予定され、これに備えて末端施設までの整備が急務となっていった。これら生産基盤の総合的な改善のため、当改良地区とつくば市との度重なる協議の結果、茨城県土浦土地改良事務所の指導のもと、県営土地改良事業を導入することとなり、平成八年度に事業計画を作成し、地権者全員の同意のもと、平成八年に施行要望を行い、同九年に県営とち改良総合事業川口地区として事業採択となった。平成九年度の調査設計ののち工事着手隣、川口用排水機場及び上原用水機場が新たに建設され、パイプライン、排水路、農道、客土及び根水処理の工事が行われ、農業近代化の基盤が確立されることとなった。

 ここに本事業遂行に多大のご尽力を賜った、茨城県つくば市および関係各位に敬意を表するとともに、改良区役員及び組合員各位に深甚なる感謝の意を捧げるため、記念碑をここに建立しこの事業を永く後世に伝えるものである。

 

「田舟」から、あの「稲刈りは水中での手探り」「刈り取った稲は舟に乗せる」という時代があった邑知潟の米作りを思い出しました。

 

それにしても、小貝川のすぐそばなのに水田を維持するための水不足もあったとか、霞ヶ浦から補給されているとは。

全国津々浦々水田は健在と思っていたのですが、水がどこから来たのかはそれぞれの水田のそれぞれの歴史があるのですね。

 

水争いとか水を盗むといったニュースを耳にすることなく「禾黍油油」の風景を見ることができるようになったのも、驚異的に変化する時代だったのかもしれませんね。

 

 

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