水のあれこれ 302 撫養川と塩田

やはり撫養川は小鳴門海峡の方へと流れていましたが、新池川と合流する地点より南側の旧吉野川河口まではどうなっているのだろうと帰宅してから検索しました。

 

まずその川の読み方が全く違っていたことに愕然としました。

撫養川(むやがわ)と読むのですね。「撫養町」も「むやまち」ではなく「むやちょう」のようです。てっきり「ぶようがわ」だと思って入力したらちゃんと検索できたのに、肝心の読み方が違いました。

ほんと、日本語は難しい。

 

撫養川(むやがわ)は、徳島県鳴門市を流れる吉野川水系一級河川である。

吉野川上流部より分流し、鳴門市街地を通り小鳴門海峡に合流する感潮河川。

「旧吉野川上流部より分流」と書かれていますが、「上流部」とはどこなのでしょう。現在の旧吉野川河口とも違うのでしょうか。なかなか知りたいことにたどり着くのは難しいものです。

 

「感潮河川」は、あの和歌川で知りました。

「どちらへ流れているのか気になる川」でしたが、二つの吉野川はなんだか似ていますね。

瀬戸内海から太平洋へと変わるあたりに、左右対称に流れ込むことも何か地形が似てくるのでしょうか。

 

*撫養川周辺の変遷*

 

撫養川のそばにある岡崎城跡も撫養城(むやじょう)と呼ぶそうです。

 

ところで「ぶよう」という読み方もまた間違いではなく、意味として「かわいがり養う」(コトバンク)という意味もあるようですが、「撫養(むや)」はこの地方のことを指すようです。

徳島県北東部、鳴門(なると)市の中心地区。撫養川河口にあり、古くから畿内(きない)と阿波(あわ)(徳島県)を結ぶ交通の要地出会った。「むや」は舟をつなぐ意の「舫(もや)う」の転訛(てんか)で港の意とする説もある。牟夜ノ戸(むやのと)ともいい、鎌倉時代に四国に配流された土御門(つちみかど)上皇も撫養に上陸したといわれる。江戸時代には藍(あい)、塩、たばこなどの積み出し、米、麦、大豆、肥料などの積み入れで賑わった。江戸初期に開発された塩田も現在では埋め立てられ、総合運動場や公園に変貌(へんぼう)した。JR鳴門線、国道28号が通じ、神戸淡路鳴門自動車道の鳴門インターチェンジが設置されている。

コトバンク日本大百科全書(ニッポニカ))

 

「撫養」とは何か気になって調べたら、期せずしてこの地域の歴史になりました。

 

そういえば駅前に「鳴門金時」の宣伝があったけれど、どこにさつまいも畑があるのだろうと不思議に感じるくらいバス路線沿線は水田や蓮田でした。

 

「塩田」からピンときて航空写真に切り替えてみると、東側の海岸沿いの「里浦町」には広大な畑が見えました。白っぽい土です。そして、灌漑のためでしょうかまっすぐな水色の線も描かれています。

沿岸は本来は低湿地で、北半の多くは藩政期に塩田として開発され、撫養塩田の一部を形成していたが、製塩法の変化に伴い昭和40年代に廃止された。その後、埋立が完成し市街地に変容しつつある。南半の沿岸も埋め立てられ、工場や運動公園敷地となる一方、畑地となり夏はサツマイモ、冬はダイコンの主要地を形成している。

Wikipedia、「撫養川」「地理」)

 

Wikipediaの「鳴門金時」に「昭和50年代に徳島県に導入された「土佐紅」「坂出金時」から選抜育成された」とあります。

塩のつくり方や流通方法が驚異的に変化したこの半世紀でしたが、鳴門金時もまたその時代に生まれたものだったようです。

塩田がなくなる激動の時代を乗り越えた地域だったのですね。

 

地図から気になる場所を訪ねたあと、こうして「復習」するとまた歴史がつながって見えてくるので興味が尽きないですね。

 

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

「城と水」のまとめはこちら