いろいろなきっかけから「吉野川の河口を歩こう」と決まったものの、あまりにその地形は複雑で広範なためどこをどう歩こうか、散歩の計画ノートにいくつも気になる場所を書き込みながらだいぶ悩みました。
最初は旧吉野川を河口からたどりながら、吉野川と分かれる場所に目が行きました。
「第十新田」と対岸の「佐藤塚」というあたりで、ここに立って吉野川から旧吉野川になる場所を眺めたい。ところが、最寄りの駅やバス停からだいぶ離れています。
ふと吉野川右岸側を見ると、「第十のせき」と名勝史跡の表示がありました。地図にはあの灰色で示される堰は描かれていないのですが、なんだろうと検索したところ吉野川第十堰だとわかりました。
「第十堰」聞いたことがある名前です。
Wikipediaを読んで、記憶が朧げながら繋がってきました。
可動堰化問題(第十堰問題)
第十堰には、約1キロメートル下流の徳島市に新たな可動堰を建設する計画があり、その是非をめぐってさまざまな運動が行われてきた。なかでも2000年に行われた住民投票は広く注目を集めた。
木頭村を訪てからは徳島のニュースも関心が出たので、この住民投票も記憶にあります。那賀川と吉野川が混乱するほど土地勘がなかったぐらいなので、そのまま可動堰の行方は私の記憶から消えていました。
こうして2000年(平成12年)1月23日、住民投票が実施された。最終的に投票率は約55パーンとに達し、開票が行われることになった。開票の結果、可動堰化に反対する票は91.6パーセントに達した(賛成派の多数は棄権しているため、この結果は予想されたものであった)。この結果を受け、小池正勝徳島市長は可動堰化に反対の姿勢に転じ、2000年8月、当時の政権与党であった自民党・保守党は政府に対し、可動堰化の白紙撤回を含む公共事業の見直しを提言した。
当時は環境問題や公共事業の批判の視点が多いニュースの中で、Wikipediaの「背景」にはそれぞれの視点が書かれていました。
可動堰を推進する意見としては、治水対策が主な理由であった。吉野川流域は有史以来台風や集中豪雨による水害が発生しており、徳島県内で雨が降らなくても上流の高知県で豪雨が降れば「土佐水」や「阿呆水」と呼ばれる水害が発生する。「150年に一度」発生するような大水害でも被害が出ないようにするためには固定堰を撤去し可動堰をつくり、上流で大雨が降った時には堰を低くして流量を調整し、水が堰き止められないようにすべきだということである。
(強調は引用者による)
このニュースを聞いた頃は、「150年に一度」どころか「100年に一度」いえ「50年に一度」でさえ実感としてわからなかった頃でした。
一方反対派の立場は環境問題と公共投資が大きな理由であった。可動堰を作ることで吉野川の環境、とくに下流域に広がる干潟に壊滅的な打撃を与えることが懸念された。また、1000億円を超える工費が試算されており、県も市も財政難の中、巨額の事業費を要する公共事業を行うことになるとの批判も強かった。特にこの時期は全国で公共事業に対する国民の疑念の声が上がるようになり、ダムや堰といった河川開発に対してはマスコミも批判的な姿勢を強め、こうした反対運動の後押しになった。更に公共事業を巡る汚職事件の頻発も、国民の事業に対する厳しい目を強める結果となった。
あれから四半世紀、時代の変化とともに大きな水害が再び増えて、その被害の大きさや復興するまでどれだけのことを失うかを目の当たりにすることが増えました。
何世紀も川を治めようとしてきた歴史を少し知ると、そのどちらの視点も大事であり、それぞれの地域の葛藤には簡単には答えが出せないものだと思うようになりました。
「第十堰」
ぜひとも訪ねてみよう。やり残した宿題の一つとも言えそうです。
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