落ち着いた街 39 水の道がわかる街

芝原用水が県道128号線と交差する場所が暗渠になり、そのそばに川上神社の境内がありました。

神社の裏手からはまた水路がえちぜん鉄道の高架橋の下まで続いていて、小さな畑もありました。

 

高架橋の下あたりで分水された水路の北側をたどることにしました。

しばらくはその気配もありませんが、途中で木陰の涼しげな松ヶ根公園の入り口に地図と案内板があり、その先に暗渠らしい歩道が見えました。

 

福井城郭外の下級武士の町

 福井城下では、外堀の内側に上中級の武家地があり、外側に町屋・寺社地があった。さらに、城下の外周には奉行や物頭配下の下級武士たちの住居が配置されていた。

 城下の北東に当たるこの一角には、、「御駕(おかご)町」「御旗(おはた)町」「御小人(おこびと)町」の町名がみえ、それぞれ、藩主の駕籠の者、軍旗の警護・飛脚、奥向きの小者の役にあった下級武士の居住地とされた。城下の北口の加賀口門、北東の志比口(しひぐち)、奥平門(おくだいらもん)の界隈にも、御手洗組、御普請組、作事組、郡祖等の下級武士の町が配置されていた。

 

芝原用水は「高架橋の下あたりで分水」されていたのではなく、しばらくえちぜん鉄道に沿って南西に流れた後、奥平門で分水された水路がこの松ヶ根公園の西側を流れて、公園のところで直角に曲がって現在は暗渠になっている部分が外堀だったようです。

実際に歩いてみて、そしてこの案内図のおかげで江戸時代の水路と堀の関係がわかりました。

 

この先、暗渠は住宅の前の広い歩道として利用され、途中からまた開渠になって水が流れているのを眺めながら歩きましたが、お泉水(せんすい)通りの手前で住宅地内になり、お泉水通りの先は突如として風景が変わり、養浩館庭園の外側を流れる美しい水路になりました。

 

その先に市立郷土資料館と御泉水公園があり、公園の入り口の「宝永歴史マップ」に芝原用水がどのあたりを流れているか説明が描かれていました。

芝原用水

用水(上水)は城下士民の飲み水であり、また戦術的にも重要な役割を占めているため、藩では上水奉行を置いて厳重な管理をした。

上水を浴び、手足を洗い、汚いものを洗ってはならない。牛馬も洗ってはならない。

おのおのが屋敷に取り入れている水口に堰を作ってはいけない。

材木を流したり、水に着けて置いてはいけない。

ちり、あくたを流してはいけない。

もし違反するものがあれば、過料銀を取ると。

 

 

涼しい東屋で休憩したあと、福井城の北側の堀へと歩きました。美しいお堀です。

 

 

ぐるりと回って駅前へ戻る途中、繁華街に「百間堀」の説明板がありました。

結城秀康により慶長6年(1601)から同11年(1606)、北庄城(きたのしょうじょう、福井城)は大改修され、その際新川(現在の荒川)の掘削により、吉野川の流路が変更された。百間堀は、吉野川の旧河道を利用して造られた堀である。古絵図によると堀幅は55間(約100m)であり、百間とは広い堀幅を示す呼称であろう。

 

ああ、なんとここにきて大きな勘違いをしていたことに気づきました。福井城の堀の水も九頭竜川から芝原上水によって供給されていたのかと思い込んでいましたが、足羽川の支流がぐいと曲がった場所を利用していたということのようです。

そして上水は九頭竜川から得ていた。

ようやく頭の中が整理されました。

 

街じゅうに江戸時代からの水路が残り芝原上水の道を辿ることができて、やり残した宿題が終わりました。

 

 

 

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