水のあれこれ 248 小田原用水の取水堰を見に行く

居神神社のすぐそばに東海道新幹線が通っていて、少し歩くだけで何本も通過する新幹線を見ることができて元気が出ました。

 

その高架橋をくぐって山側へと道が曲がる手前に、「板橋(上方)口」の案内板がありました。

この辺りは、東海道に対応する小田原城総構の西側の出入り口が設けられていた場所です。

小田原早川上水にも「板橋」の地名の由来が書かれていました。

なお、取水口のある「板橋」の地名は、この上水に板の橋がかかっていた所に由来する。

 

居神神社の説明もありました。

居神神社は城下山角町と板橋村の鎮守です。もとは水神を祀る「井の神」であったと考えられますが、永正13年(1516)伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められて自害した相模の名族三浦義意の首が当地に飛来し、やがて守護神に転じたとの由来から、三浦荒次郎義意の霊を祭神年、明治時代末期に木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)・火之加具神(ほのかくつちのかみ)が合祀されています。

「水の神様」、想像外の激しい歴史ですね。

 

*小田原用水沿いに歩く*

 

さて、新幹線の高架橋を過ぎると右手にお寺が並び、水路を挟んで住宅地が続く場所になりました。

その手前からすでに水の音が聞こえてきて、早く水路を見てみたいと心が高鳴ります。

 

幅1メートルほどの石積みの水路で、水が勢いよく流れています。

そばを遊歩道が整備されていて、時々、人とすれ違うぐらいで静かに水音だけを聴いて歩きました。ところどころ、板の橋が水路の上にあります。

橋の上に、白黒の猫がのんびりと日向ぼっこをしていました。

 

途中に、「小田原用水とは」という大きな案内板がありました。

 小田原用水は箱根から流れてくる早川の水を小田原の町へと送る水路です。取水堰は国道一号・上板橋交差点付近に設けられています。

 この用水は日本で最初期の「上水道」です(『明治以前日本土木史』)。小田原合戦(天正十八年(一五九〇))に関する絵図(島原松平家「小田原陣図」)にも描きこまれています。

 十七世紀の初めには、石蓋(いしぶた)のある石組の水路が東海道などの街路へ流れ、街路に面する屋敷に分水路が作られていました。十七世紀の中頃には、街路に面する屋敷への分水路に、木や竹の樋を使った複雑な仕組みが導入されました。低い所に流れる自然の力を巧みに使った先人の知恵です。

 

16世紀から17世紀にかけては遠くから細い樋を伝って水が送られてくるという水道は、当時の人にはどのように見えたことでしょう。明治時代にガスや電気に驚いたように、あるいは1980年代から90年代に私たちがインターネットに驚いたような、「水を得ること」が驚異的に変化する時代だったのでしょうか。

 

 また、水路を構成する石には近くの風祭などで採れる安山岩が利用され、小田原産の意思は「水道石」と呼ばれて江戸の神田・玉川上水などに使われました(「永代日記」ほか)。

「水道石」を扱っていた石材店は、今も板橋地区に残っています。小田原の技術が江戸時代の都市文化を支えた一面がかいま見えます。

 明治に入ってからも、さらに給水範囲を広げたほか、市民が自主的に管理する仕組みをつくるなど、小田原用水は上水道として欠かせないものでした。江戸時代から用水の管理には住民も参加し、汚さないよう細心の注意が払われました。

 

 ところが、上流の板橋付近で水田や水車に使う水量が増加したことなどによる紛争が続きます。またコレラなど伝染病が繰り返し流行したほか、高台に有力者たちの別荘が立ち並んだことで近代的な上水道が作られることになり、昭和一一年(一九三六)、小田原用水は上水道の役目を終えました。

 その後も戦前は、水田や水車に利用されただけでなく、その清流は別荘地・住宅地の魅力を高めると評価されていました。この案内板は三井物産創業者・益田孝の別邸・掃雲台跡に立っています。茶人としても知られる益田は、自邸内を流れる小田原用水から蜆(しじみ)をとっては懐石に仕立て、客人をもてなしたといわれています。

 

山沿いの静かな住宅地沿いのひっそりした水路から、南へと大きく向きを変えながら車道に出ると現代的なしっかりした造りの水路になり、地蔵堂の前から取水堰へと繋がっているようでした。その水路も側面は石積みでできていました。

途中、箱根登山鉄道の下で流れが二手に分かれていく分水路があり、そこは昔からの石積みの水路のようで、水路に渡された石橋を渡ることができます。

 

16世紀からずっとここを早川からの水が流れていることに圧倒されながら、しばらく石橋の上から水面を眺めました。

 

*小田原用水取水堰へ*

 

上板橋の三叉路で国道1号線を渡り、早川沿いに30mほど上流側へと歩くと「小田原用水取り入れ口」の標識があり、河原へと下りられるようでした。

小田原用水(早川上水)取入口

 小田原用水(早川上水)はこの地で早川の川水を取り入れ、板橋村は旧東海道の人家の北側を通水し、板橋見付から旧東海道を東に流水して古新宿を通り、江戸口見付門外蓮池に流れ出たもので、途中の所々で分水されて小田原城下領民の飲料水に供されていたものである。

 この古水道は小田原北条氏時代に施設されたものと思考され、我が国の水道施設の中では初期の頃の水道と思われる。江戸時代になっても利用され、城下17町の飲料水として利用されていた。

 その後上水道から下水道へと姿をかえ、昭和31年市内電車の軌道撤去による国道の大改修によって面目を新たにした。

 なお、近年道路工事中に、江戸時代のものと思われる分水木管が発見され、その一部が市立郷土文化館に保管されている。

 

上水の役割を終えて、下水道に使われ、その後、またこの用水の歴史的な意味が掘り起こされて「面目を新たにした」時代にここを訪ねたことになるようです。

 

早川の河原へ石段を降りると、その途中に早川よりも少しだけ高いところを水路が流れて取入口へと向かっています。

その水路沿いに上流へ歩くと堰が見えて、早川の水がこちらの水路へと分かれている場所ありました。

すぐそばまで行って、しばらくその流れを眺めてから帰路につきました。

 

 

東海道新幹線東海道本線で何度も渡っていたあの早川が芦ノ湖からの流出河川だとつながったのが最近のことでしたが、その下流に最古の上水道があったのでした。

 

 

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