行間を読む 198 賀茂用水から牟呂用水へ

地図を眺めていると、豊橋駅の牟呂用水が西へと流れておよそ2kmほどのところに「牟呂水神町」「牟呂市場町」といった「牟呂」のつく地名と牟呂八幡神社があります。

牟呂用水が干拓地と思われる場所へと流れ込んでいたような場所に見えますから、それで牟呂用水と名前がついたのだろうと想像していました。

 

ところが牟呂用水の歴史を検索していると、この解釈は違っているようでした。

どうやら牟呂という地域とは別に、あの土合(どあい)より少し上流に築かれた井堰からの用水路を少しずつ延長して、最後に牟呂用水となったようです。

 

 

*賀茂用水から三河湾の新田開発地へ水を送る*

 

愛知県のホームページの「今日は、とよがわ日和」というサイトに、「暗渠に立つ『まち』。水上ビルと牟呂用水のお話し」に歴史がまとめられていました。

 

「牟呂用水」の歴史は古く、1887年(明治20年)の「賀茂用水」の開削まで遡ります。

「賀茂用水」は、一鍬田村(現在の新城市一鍬田)から賀茂村(現在の豊橋市賀茂町)に至る約8kmの農業用水で、村民総出の開削により、一度は完成を見たものの、直後に暴風雨に見舞われ壊滅的な打撃を受けてしまいます。

 同じ頃、牟呂村(現在の豊橋市牟呂町)の地先では、三河湾干拓して新田開発を行う一大プロジェクトが進行しており、そこでも農業用水が必要とされていました。

 こうした経緯の中で、両者による交渉が持たれた結果、干拓事業者の手によって、「賀茂用水」が修復されるとともに、そこから先、牟呂村までの約16kmにわたる新たな水路が開削されることとなりました。

 

牟呂地域の先の干拓地を潤すために、計画が変更されて最終的に「牟呂用水」と呼ばれるようになったようです。

それがWikipediaの「牟呂用水」の以下の説明の意味でした。

当初は、豊橋市賀茂町までの賀茂用水であったが、神野新田開発に伴い、用水路を延長し現在に至る。豊橋市街地を流れる部分は、地元では新川(しんかわ)とも呼ばれている。最終区間の牟呂地区で神野神田への分流を分けた後、牟呂市場町で柳生川に合流する。正式名称は「牟呂松原用水牟呂幹線水路」。

 

水路ひとつとっても、歴史を理解するというのはなかなか大変ですね。

 

 

*牟呂用水と霞堤のある地域*

 

賀茂村は豊川左岸の大きく蛇行して霞堤がある4つの地域の上流から2番目の地域です。

 

金沢町の南側に豊川へ迫り出した山を過ぎると、また左岸の大きな蛇行部に田園地帯があります。

その山から内陸を牟呂用水が南へ流れて賀茂町を潤すと、また豊川に迫り出した山があり、次の霞堤のある下條地区へと牟呂用水も続き、最後に豊橋駅から北東へ4kmほどのところにある牛川のあたりから吉田城のあたりに蛇行した箇所があって霞堤があるようです。

 

牟呂用水はこうして霞堤のある四つの地域をつなぎながら、最後に豊橋駅の西側の牟呂町まで流れ、その先に神野新田町を作り出した。

ようやくこのあたりまで頭の中が整理されました。

 

地図を眺めていると、牟呂用水神社から八名井地区に入ると用水路のそばに集落があるように想像していました。

その集落の中にあるコミュニティバスの次のバス停まで歩いて、そこから新城駅へ戻ろうと計画を変更しました。

 

ところが実際に歩いてみると、牟呂用水よりはるか高台に八名井地区の集落があり見上げるような場所です。

これはとても上りきれないとわかり、牟呂松原頭首工のそばの土合バス停に戻ることにしました。

 

霞堤がある豊川のそばの低地と、高台の地域の境界線のような場所を牟呂用水が流れていることがわかりました。

「村民総出の開削により、一度は完成を見たものの、直後に暴風雨に見舞われ壊滅的な打撃を受けてしまいます」の意味は、そういう地形が理由かもしれません。

 

 

 

「行間を読む」まとめはこちら