水の神様を訪ねる 93 牟呂用水神社と「先覚者」

2019年に牟呂用水を知ったあと、地図で豊橋市内からずっとたどってみました。ほぼ開渠で、さらに現代でも利用されているようで蛇行した水路をたどるのはけっこうたやすくできました。

そして突き当たったのが豊川(とよがわ)の堰で、のちに牟呂松原頭首工だとわかったのでした。

 

いつか牟呂用水のそばを歩いてみたいと思いながら何度か地図を拡大しているうちに、ふと「牟呂用水神社」を見つけたときには心が弾みました。

これは訪ねてみたいものだと、散歩の計画に書かれたのでした。

 

牟呂松原頭首工から西へ県道69号線をまっすぐ数百メートルほどでしょうか、朝拝地区にその神社があります。「ちょうはい」と読むようですが、あの熊本県八代市の干拓へ送水する遥拝堰のそばの遥拝神社を思い出しました。「拝」に込められている思いが何かあるのでしょうか。

 

どうやらその地域をぐるりとまわるコミュティバスもあるようです。ただ、牟呂松原頭首工を見て牟呂用水神社も訪ねるとなると、バスの本数が少ないのでこの数百メートルほどを歩く必要がありそうです。航空写真ではちょうど民家が途切れた人寂しい場所のようなので、現地に行ってから考えようと思いました。

熊も怖いですけれど、ヒトの方が怖いこともありますからね。

 

そして牟呂用水神社から西へと歩くと、あの豊川沿いの「霞堤」のひとつである金沢町と江島町の蛇行した場所になり、地図では水田と民家が広がっているように見えます。さらに3kmほど歩いて対岸に渡るとJR飯田線江島駅があります。歩けたらそこまで歩いてみようという無謀な計画でした。

 

*牟呂用水沿いに牟呂用水神社へ*

 

頭首工からしばらくは、県道より一段下側にある牟呂用水の水路を眺めながら歩きました。

武蔵水路と同じ二列の水路で、水深はそれほどでもないのですが水の流れは速そうです。

ここから十数キロ以上、三河湾河口付近の地域まで豊川左岸を潤す水だと思うと、誰がどうやって計画し、どれだけの人が開削とその維持に関わってこられたのだろうと気が遠くなりますね。

 

県道は予想以上に交通量があったので、そのまま歩いてみることにしました。

途中、山から流れ出てくる宇利川は美しく、しばらくその高い橋から眺めました。そしてこの宇利川の下を、牟呂用水はサイフォンで交差しているようです。サイフォンというと現代の土木技術だと思い込んでいたのに、江戸時代にはすでにあったのですからこれもまた気が遠くなりますね。

 

宇利川を渡ってすぐの森の中に、牟呂用水神社がありました。鎮守の森というよりは竹藪と森そのものの中に石の鳥居がありました。

参道を入るとすぐに右手に曲がったところに社殿があります。

 

質素ながらも美しい額に「牟呂用水神社」と書かれているのを惚れ惚れと眺めていたら、軒下にスズメバチの巣がありました。

危ない危ない、慌てて御由緒を写真に撮って退出しました。

 

 

*「先覚者の霊」を祀る*

 

 

    牟呂用水神社

⚪︎社格  十五等級

⚪︎鎮座地 新城市八名井字朝拝二番ノ一

⚪︎祭神  水波能米神、天水配神、国水配神

     牟呂用水事業に功労のあっった杉下平四郎他三十八柱

⚪︎由緒

  明治二十年事業を起こしたが、再三の水害にあい、筆舌に尽くせぬ困難に遭遇したが、発起人一同身命を賭して努力し、同二十七年に完成した。この先覚者の威徳を偲び、八名井、金沢、賀茂の三ヶ村にて昭和五年霊殿を建て慰霊際を行う。同四十二年施設拡充し近代的に整備された。同用水の守護を願って明治百年を記念し新たに社殿を建て、先覚者の霊を祀る。

 

 

「水波能米神」は「みずはめこめかみ」と読むのでしょうか。水の神様と米の神様が一体になったのか、初めて目にしました。また「天水配」「国水配」の神も初めてです。

いろいろな神様がいますね。

 

 

プログの中で「先覚者」についての記録がいくつかあったような気がしました。

東京に酪農を広げた人とか浮島沼の治水と農地改良をすすめた人とか玉川上水からの熊川分水とそれを科学的に利用した人とか、そして吉野川導水や道路、港湾など夢のような四国の一世紀後を導いた人とか。

 

ここに「祀られている」38名の方々はそれぞれどんな人生を送られて、どのような志をもっていたのでしょう。

 

あちこちの水の神様を訪ねるようになって、人と神との境界線が薄らいでいくような気がしてきました。

 

 

 

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