竜神社の広い境内の隅に、石が積まれて一段高くなった場所に大きな石があり地図で見つけたあの「宇喜多堤起点之地」がありました。
宇喜多堤は、天正十二年(一五八四)から十三年ごろ、当時この辺りを支配した戦国大名宇喜多家の命により児島湾の干潟に最初に築枯れた、干拓のための潮留め堤防です。
堤は、ここ多聞カ鼻(早島町塩津)を東の起点とし、宮崎を経て、向山の岩崎(倉敷市二日市)に至る、約4.5kmの長大なものでした。二つの堤によって早島から倉敷北東部にかかる広大な大地が生み出され、そして以降四〇〇年にわたる児島湾干拓の歴史がここから始まるのでした。
この場所は古くは、「龍王山」と呼ばれる切り立った山で、現在平地に祭られる竜神社(別名、祇園社)はこの龍王山の上に座し、両乞いの神、苗を守る神として崇められてきました。
宇喜多堤はやがて金毘羅往来へと姿を変え、現在は県道倉敷妹尾線となっています。ここにある記念碑は、平成二一年に開催された「宇喜多堤築堤四二〇周年記念事業」の開催を記念して、宇喜多堤の起点を示す碑として建設されました。
竜神社のそばには御由緒が見つからなかったのですが、この案内板によると「苗の神様」だったようです。
*宇喜多堤、十六世紀に児島湾を締め切る*
地図を見てなんとなく昔の海岸線だろうと散歩の計画を立てた道が県道152号線(倉敷妹尾線)で、期せずして宇喜多堤の跡を歩いていたことに、こうして記録をまとめていて初めて気づきました。
その道は山の端の少し小高い場所に蛇行しながら西へと続き、道の両側に落ち着いた家並みが続いています。
「不老のみち」と重なる場所があり、散策をしている方に何度も出会いました。
「金毘羅往来の燈篭と道標」「清澄家住宅」と少し歩くだけで歴史が書かれた案内板や史跡があり、「宇喜多堤市場園」にはまた詳しい説明がありました。
宇喜多堤と早島
天正十二年(一五八四)から十三年にかけ、早島の眼前に広がる児島湾の干潟に塩津多聞が鼻(現・竜神社)を起点に宮崎を経て、倉敷向山の岩崎に至る一本の汐止め堤が築かれた。岡山の戦国大名宇喜多秀家の命を受け、岡豊前守、千原九右衛門によって築かれたこの堤は、同時期に倉敷酒津から向山にむけ築かれた堤とともに宇喜多堤と呼ばれた。
この二つの堤により、児島湾の海水と高梁川の川水の侵入を防ぎ、早島から倉敷北東部にかけて安定した大地が創出され、この大地を潤す八ケ郷用水の開削によって、広大な大地は実りの地へと変わっていった。やがて堤は、一筋の道に姿を変えその一部は金毘羅往来として多くの旅人でにぎわった。
宇喜多堤の築堤は、その後人々の干潟開墾に対する意欲を高め、その思いは江戸時代の大規模な新田開発へとつながり、明治、大正を経て昭和二十四年の児島湾締切り堤防の完成まで、約四〇〇年にわたり受け継がれていった。
宇喜多堤の築堤は、四〇〇年にわたる児島湾干拓事業の先がけであり、早島はもとより備南地域発展の起点として岡山県南の歴史上特筆すべき事業であった。
(広場前の県道倉敷妹尾線は、宇喜多堤の跡と言われている。)
(強調は引用者による)
2021年に児島湾締切堤防のそばの児島湾干拓資料室を訪ねたときには、「締切堤防」というのは近代の土木技術の発想だろうと思っていました。
ところが、16世紀にはすでに小規模ながらも「児島湾締切堤防」があったのですね。
*前潟へ*
ここからは山沿いの道を離れて、水田地帯が広がる「前潟」へ向かいました。
水田地帯の雰囲気を見ることができたら十分と思って歩いていたら、交差点の角に大きな石碑がありました。
碑文は旧字体が多い漢文で記されていたのですが、横に説明板がありました。
前潟新田開墾記念碑
前潟新田の開発は、寛文七年(1667年)早島東西古田五ケ村の総意として始められた。しかし、宇喜多堤の南に広がる広大な干潟の開発工事は困難をきわめ、汐止めの大堤は、激しい波風にさらされ幾度となく決壊した。そのため、村人の中には工事の出費のために身代を失う者も出たという。
それでも人々の新田にかける熱意は少しも失せることなく、総元締め佐藤助左衛門の元に結束をはかった。さらに、大阪の具足屋長右衛門の出資を仰ぎ、工事にあたった結果、人々の多大な努力と経費を費やした前潟新田は延宝七年(1679)、最後の汐止めを完了し一応の完成をみた。そして、完成した新田は、庭瀬戸川本家の裁定により帯江と早島に分けられたが、その後もたびたび堤が切れることなどしたため、実際に新田の検地が行われたのは、正徳五年(1715)のことであった。
この記念碑は、前潟開墾250年を記念して、大正七年に立てられたもので、落成記念式には早島戸川家13代当主・戸川安宅も訪ねている。
16世紀終わりに宇喜多堤ができ、さらに一世紀後にこの前潟が干拓地に変わった歴史が書かれていました。
この角から先は水田地帯が広がっています。
今回は残念ながら歴史民俗資料館を訪ねる時間が取れなかったのですが、ふらりと歩くだけで子どもの頃から耳にしていた「島」がつく地域の干拓地の歴史を辿ることができました。
「米のあれこれ」まとめはこちら。