散歩をする 484 牟呂用水のそばを歩く、つもりだった

散歩の3日目の朝、旅の醍醐味の時間にもうひとつ始皇帝の時代の遺跡の番組がありました。騎馬民族と対峙するために全長700kmに及ぶ馬車の道を整備した跡らしいのですが、まるで切り通しのような道です。

 

その中で「轍(わだち)の幅を統一した」と解説があり、西国分寺駅近くにある東山道武蔵路跡の不整形に轍のあとが残っていた時代や在来線の線路を走るミニ新幹線を思い浮かべました。轍の幅ひとつとっても気が遠くなる歴史があるものですね。

 

さあ、今日はどんな道の歴史と出会うことでしょうか。

 

 

*牛川地区の牟呂用水のそばを歩く*

 

前日、牟呂用水の始まりを見に行ったので、今日の午前中は牟呂用水のそばを歩きそのあと牟呂用水の先にある干拓地を歩く予定です。15時台の新幹線に乗って帰るので、また歩ききれない計画かもしれません。

 

9時10分、豊橋駅前から和田辻東行きのバスに乗り、途中の豊橋創造大学の横を流れる牟呂用水に近づきました。このあとあの牟呂用水沿いを歩くのだと期待が高まるような美しい水路です。9時28分に金田口バス停で下車しました。

ここから住宅地を西へと歩くと牟呂用水のそばに牛川稲荷、熊野稲荷とあります。牟呂用水の歴史が何か残っているかもしれません。そのあと牟呂用水沿いに先ほどの豊橋創造大学まで歩いてみようという計画です。

 

住宅地へと入るとまた金木犀の香りがしてきました。真っ青な秋空に、遠くに見える木々や竹藪のあたりが牟呂用水でしょうか。

畑と住宅の中を複雑に曲がる道を歩くと、崖のような場所に牛川稲荷がありましたが御由緒はわかりません。

その横の急な下り坂の先に、水田地帯と橋が見えました。崖に沿って牟呂用水が流れています。

地図では水路沿いに道が描かれているのですが、草に覆われてその先は行き止まりにも見えます。並行している神田川沿いの道も通行止でした。残念。

 

もう一度、崖の上の高台の住宅地の中を牟呂用水に近づける道を追いながら歩きましたが、次の坂道もまた通行止めです。

牛川小学校のあたりに水路沿いに道が描かれていたので期待して近づいてみましたが、そばへといく道も見つかりませんでした。

案外と牟呂用水というのは近づき難い場所に造られているのかもしれません。

 

豊川用水東部幹線水路といい、牟呂用水といい、今回の散歩は近づくこともできない幻の水路になりました。

 

 

*牛川の段丘の上を歩く*

 

以前から、東から西へまっすぐ「牛川遊歩公園」と薄緑色で描かれている場所が気になっていました。

 

そのうち、あの吉田城の近くの豊川の蛇行した地域は「霞堤」だったことを知り、この牛川はどのような地形なのか歩いてみたいと思うようになりました。

今回はまさかの牟呂用水を歩くことは断念で、急きょ、牛川地区を歩くことにしました。

 

牛川小学校の横をぐいと登って段丘の上に戻ると広々とした熊野神社の境内があり、また下り坂になる複雑な地形です。しばらく市街地を歩くと広い県道31号線に出ました。

よくみると道に路面電車の跡がありました。

県道31号線を渡り、芭蕉がたくさん植っている庭を過ぎて150mほどで、牛川緑道が見えてきました。

 

ちょうど玉川上水ぐらいの道幅で、木々が植えられて「健康の道」というウォーキングコースになっていました。

暗渠から水の音が聞こえてきます。

ここから西へと下り坂になり東側はなだらかに上り坂で、地図では東へと1.2kmほどこの緑道が続きますが、どこに水源があるのかは読み取れません。もっと山の方に「池下」と地名があるのでその辺りだったのでしょうか。

 

その水が牛川薬膳町を通り吉田城の北側にある霞堤内の田畑へと流れ込んでいるのだろうかと想像したのですが、ほとんど手がかりになるようなものはわからないまま東田中郷バス停から豊橋駅へ戻るバスに乗りました。

「あずまたなかごう」と読むようで、地名から水田地帯が広がりその先の霞堤のある地域まで平地だと想像したのが全く違っていて、豊川(とよがわ)との間に東田神明宮や臨済寺のある場所が小高く続く場所でした。

 

豊川左岸は崖のような場所が続いていて、蛇行した地域はその一段下に広がっているらしいことがわかった散歩になりました。

 

豊橋駅に戻り、いよいよ最後の干拓地を訪ねます。

またまた「歩く、つもりだった」になりそうな予感がしますが、もうひと頑張りです。

 

 

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