水の神様を訪ねる 96 利根川の氾濫原に開けた集落の神社

散歩の1日目のメモを読み返していたら今回の散歩はなんと「前夜急遽決めた散歩だったが大満足」と書き残していました。

そうでした。前日なのでもうホテルは取れないかなと思いつつ予約できたので決行し、本庄に宿泊。

見晴らしの良い部屋から新幹線の高架橋が遠く見えました。

さすがに通過しているのが北陸新幹線なのか上越新幹線なのかは見えませんでしたが、夕日が沈む美しい秩父の山並みと時々通過する新幹線をしばらく眺めたのでした。

 

 

二日目はいよいよ、備前渠用水の取水口を訪ねます。

7時40分、ホテルをチェックアウトした時には12度でしたが、秋晴れになりそうです。

地図で見ると本庄駅のあたりは利根川の堤防からわずか3kmほどですが、その間に川が水路が何本も描かれています。

どんな場所なのでしょう。

 

駅前から少し離れると美しい屋根瓦の家が残り、そのつきあたりに安養院という大きな瓦屋根のお寺がありました。

文明七年(一四七五)の創建をいわれる安養院は、江戸時代、徳川家光より二十五石の御朱印を拝領された。総門、山門、本堂、三棟の木造建築の伽藍は市指定文化財で、本堂は本庄最大の木造建築物としてそびえ立つ。

 

静かな門前町という雰囲気の中、中学生の姿が増えてきました。お寺の西側に中学校があり、そこからは下り坂になっています。

 

阿夫利(あふり)天神社がその崖のような場所に建っていました。

 阿夫利天神社の祭神は大山祇命(おおやまづみのみこと)、大雷命(おおいかづちのみこと)、高靇神(たかおかみ)、菅原道真(すがわらのみちざね)、天手長男命(あまつてながおのみこと)の五神である。

 社伝によると、寿永年間(一一八二〜八五)に本庄太郎家長が城を当地に築いた時、厚く信仰していた相州大山(神奈川県伊勢市)の石尊大権現をこの地に勧請したのが始まりと伝えられ、戦国時代の本庄宮内少輔も深く崇敬したという。

 その後、天明三年(一七八三)七月の大かんばつの時、石尊社を池上に遷して降雨を祈ったところ、たちどころに霊験を得たといわれる。

 寛政三年(一七九一)に社殿を再建、大正二年に天神社ほかを合祀し、社号を阿夫利天神社と改称した。

 

「大かんばつ」、どんな状況だったのでしょう。

 

境内からは石段で、崖に造られた切り通しの道に出るようになっていて、崖の下は水路のそばに美しい公園があり、欄干に「登録有形文化財」がはめ込まれた橋の説明があるので立ち止まってみました。

賀美橋(かみばし)

 この橋は、大正十五年に元小山川に架けられた鉄筋コンクリート桁橋(けたばし)です。従来の伊勢街道の幅員は狭く、「寺坂」と呼ばれる急勾配の屈曲した道であったため、荷車や自動車等の増大する交通量に対応できませんでした。また利根川には仮設の木橋が架けられているのみであったため、当時の基幹的な産業であった生糸・織物関係者の通行に不都合が生じ、坂東大橋の架設を伴う伊勢崎新道の開設に際して架橋されたのがこの橋です。この橋は、近代的な意匠を凝らした装飾をもつ親柱やタイル張りの高欄など竣工時の様相を残す貴重な近代化遺産です。

 

道に歴史あり、ですね。

 

本庄市、今まで通過するだけでしたが、落ち着いた街の雰囲気に訪ねてみてよかったと思いながら歩いていると、元小山(こやま)川沿いになりカワセミを見つけました。

 

*医王寺と一之(いちの)神社へ*

 

ここから住宅地を抜けると国道17号線を境に、利根川にかけて水田や畑が広がる地域になりました。離れた場所に利根川の堤防と大きな橋が架かっているのが見えます。

一世紀ほど前は、木で造られた橋だったとは。

 

広い田園地帯を歩き、備前渠用水まで数百メートルほどのところの集落に鎮守の森が見えてきました。

医王寺の敷地に一之神社があり、立ち寄ってみました。

一之神社 御由緒

◻︎御縁起(歴史)

 当社の鎮座する田中は、間近に烏川・利根川が流れる氾濫原に開けた集落で、寛永年間(一六二四〜四四)に烏川の瀬替えによって、上野(こうずけ)国那波(なわ)郡より武蔵国に所属したという。

 その創建については『児玉郡誌』に「当社創立年代は詳らかならざれども、往昔利根川大洪水のとき、上野国一の宮貫前(ぬきさき)明神の御神体流れ来り、当地川岸に打寄せられ有しを発見し、里人小祠を造りて一宮明神と称し、鎮祭せりと云伝ふ」と記されている。また『本庄市史』には、田中の地内にある「古社(ふるやしろ)」の地は現在の一之神社があった所と伝える旨が載せられている。

 『風土記稿』田中村の項には「医王寺 新義真言宗賀美郡七本木村西福寺末、蓮台山弥勒院、本尊は不動、一宮明神社 村の鎮守 稲荷社 薬師堂 大日堂」と記されており、化政期(一八〇四〜三〇)には医王寺の境内に祀られていたことがわかる。また、享保十七年(一七三二)の「(梵字)奉造立一宮大明神御神宸殿一社」と記される棟札には、医王寺の住職と思われる「願主法印賢清」の名が見える。

 社頭に掲げられている江戸期の社号額には、「正一位稲荷大明神 一宮大明神」と二社が並記されているが、明治初年の書き上げの際に一宮明神社の社名では本社の一宮貫前明神に対して恐れ多いとの村人の意見で一之神社に改められたという。

 

ああ、確かに、現代でも間近に烏川と利根川が合流したすぐそばです。

「氾濫原」だったとか「烏川の瀬替え」とか「利根川大洪水」とか、あるいは「大かんばつ」とか、そこに備前渠用水の取水口を造ったとか、現代の平和な田園風景からは当時の様子は想像もつかないものでした。

 

何だか圧倒されながら、真っ青な秋空のもと、秩父山脈そして赤城山から遠く日光の山々まで遮るもののない畑の中の道を堤防に向かって歩きました。

 

 

 

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