東海道新幹線の風景のダイナミックさは、都府県の主要な大きな川を次々と渡るところにあります。
多摩川、鶴見川、相模川、酒匂川そして静岡県に入ると黄瀬川の後に富士川、安倍川、大井川、天竜川と続き、浜名湖を渡ると豊川、豊川放水路、矢作川、庄内川そして木曽三川へ、鉄橋の音に変わりだすと身を乗りだして、堤防から堤防までその水面や河川敷を一瞬たりとも見逃すまいとながめ続けています。
ほんの数年前は車窓から眺めていただけで満足していたのに、あちこちの堤防を歩くことになるとは。
向谷(むくや)の大井神社から島田駅に戻るのに、今度は大井川の堤防沿いを歩くことにしました。
*大井川の堤防を歩く*
地図にはその大井神社より川ぞいにもう一つ「水神社」と「水神社公園」が描かれているのですが、見つけられないまま堤防へとのぼりました。
悠々と流れる美しい大井川です。
河川敷には遊歩道が整備されているようで、そちらを歩くことにしました。ほぼ川と同じ高さで、途中に「島田宿より3.0km」「日本橋より80里23町15間」といった標識がありました。
今まで何度となく大雨や台風で浸水しながらも、川岸のこうした標識が残る時代が来るのですから、昔の人にはなんとも信じ難い風景ですね。
散歩をしている人と何人もすれ違いました。
大井川橋の先からは、堤防の内側に昔の堤防らしい場所が続いています。
現在の堤防との間は、比較的最近の住宅地のようです。その間を歩くと島田市博物館と島田宿大井川川越遺跡がありましたが、残念ながら休館日でした。
その先が島田宿として古い街並みが残されている一角で、先ほどの小高い道は「大堤」だとわかりました。
Wikipediaの島田宿大井川川越遺跡周辺の航空写真を見ると、河原地区の方へと堤防が曲がっているようです。
あの向谷の先あたりからまっすぐ流れてきた大井川が右岸側の牧之原台地にぶつかるような場所でしょうか。
島田駅の西側は、地図では何か広い工場地帯になっています。
駅の方向へと歩くと水路もあり、平坦なその場所はかつては水田だったのではないかと思われる場所でしたが、製材所そして製紙工場の敷地でした。
*暴れ川だったので「越すに越されぬ」だったのか*
今も大井川を渡る時には、小学校の社会科で習った「越すに越されぬ大井川」が去来するのですが、現代の大井川は上流のダムなどで流れを制御しているからでしょうか、それほど水量は多く見えません。
次に渡る天竜川は見ているだけで足がすくみそうになるのですけれど。
大井川、どんな川だったのでしょう。
島田市のホームページに「かけがえのない存在「大井川」」という説明がありました。
「大井川」とともに生きる
南アルプスの赤石山脈など3,000m級の山々に源流を持ち、大小の支流を合わせながら160km余を流下、駿河湾へ注ぐ大井川。誕生したのは約1,800万年前。その後、何度となく隆起を繰り返し、約10万年前に牧之原台地を作り、流路を変え、現在の場所に留まりました。
川の恵みにより人が集まり、産業が生まれ、まちが栄え、文化がもたらされた島田市にとって、大井川はかけがえのない存在です。
越すに越されぬ大井川
「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と読まれたように、江戸時代、大井川は東海道の難所の一つでした。
橋がなく流れが急な川は、川越人足の肩や連台に乗って渡るしかなく、雨で増水ともなれば川留めになり、最高で28日間川留めが続いた記録が残ります。
当時の様子を今に見ることができるのが、旧東海道沿いの「大井川川越遺跡」です。
旅人が川を渡るための「川札」を買った川会所をはじめ、川越人足が待機していた番宿、川札を換金した札場などの街並みなどが復元されています(国指定史跡)。
そう、この「川越人足の肩や連台に乗って渡る」絵も、いつも大井川を超える時に思い出すのですから、これを習った小学生当時の川を越えることへの恐怖は大きかったのだと思います。
帰宅してから改めて「島田宿大井川川越遺跡」の「川越制度」を読みました。
徳川家康が征夷大将軍となった慶長8年(1603年)以降に、諸街道は江戸防衛要所として大井川の渡船、架橋を禁じられていて「渡渉制度」が施されるようになった。
(強調は引用者による)
そうだ、「越すに越されぬ」はただ暴れ川だったからだけではなく、政治的に自由に川を渡ることができなかったことも習った記憶がつながりました。
400年前どころか一世紀半前の人たちにとっても、大井川を安全にあっという間に、そして自由に通過できる時代は想像もつかなかったことでしょうね。
「事実とは何か」まとめはこちら。
新幹線の車窓から見えた場所を歩いた記録のまとめはこちら。