観察する 51 <梅の葉>

散歩をしていると、の木々には鮮やかな緑の葉が茂り、その中にがいつの間にか大きくなっています。
なんて美しい緑色なのでしょうか。
あの梅の実の緑色を表現するのは、何色と言ったら良いのでしょうか。


梅の花が好きなので毎年まだかまだかとあちこちの梅を気にしていたので、年によって開花の時期も色々であることも見えてきました。


何年か前、ふと「梅は花が先に咲いて、後から葉っぱが出る」ということに気づきました。
いえ、梅が好きになる前からその順番は知っていました。桜もそうですしね。
でも、当たり前と思って見ていた事象にどんな意味があるのか、初めて気になりだしたというあたりでしょうか。


今年はさらに、「花の後、どれくらいで葉が出てくるのか」ということがとても気になりました。


そこで毎日のように見ている梅を観察してみました。といっても、記録をつけるわけでもなくいい加減なものですが。
3月の終わりに全ての花が散りました。
すぐに、2〜3日とか数日ぐらいで葉が出るだろうという予想をしていたのですが、1週間を過ぎても枝にはほとんど変化がありません。
周囲にある紫陽花の葉がどんどんと大きくなっていくのに、梅は葉が出る気配すらないのです。
ようやく2週間ぐらい過ぎて、葉が出始めました。そこからは数日もしないうちに、一気に新緑に包まれました。


梅の花が終わった後、こんなに長い沈黙の時間があったことに気づかなかったのでした。
まあ、近所の1本の梅という「個人的体験談」のレベルなのですが。


どうして花が終わった後しばらく葉が出てこないのか気になって検索してみたところ、答えは「わからない」ことがわかりました。


「日本植物生理学会」の「植物Q&A」の答えに以下のように書かれていました。

ところで、植物の生植(増殖)の過程では、花が開くのが春であるか秋であるかには関係なく、先ず葉が茂ることで光合成が営まれてエネルギー(栄養分)が備蓄し、それを受けて(日長条件や成長の程度などに関連して)花芽が形成され、花芽が成長して開花・受粉(受精)の過程を経て果実がつくられ、果実が成熟して母体を離れて新しい個体に育つというシナリオで事態は動いています。この過程には全体として大量のエネルギーが必要で、生植の過程と光合成によるエネルギー獲得が同時進行するのが好都合のようにも考えることはできます。しかし、自然界では他の要因も関係するので、例えばヒガンバナに見られるように栄養成長と生植成長の段階が明瞭に区別されている場合もあります。生育場所での季節や成長のどのタイミングで開花させるかについての植物の戦略があり、栄養成長とは相いれない原理がそこには働いているようです。生植成長にエネルギーが必要なことは言うまでもありませんが、ヒガンバナの場合には鱗茎に蓄えられている光合成物質が、一般には幹や根に置ける蓄えが最初のエネルギーの供給源となるようです。多量のエネルギーを必要とする果実成長の段階においては多くの場合光合成と同時進行、成熟の最終段階では時として植物体の消耗を伴って成熟の過程が進展します。

以上、補足説明が長くなりましたが、”染井吉野”などで花が咲くのが葉の展開に先行する理由としては、開花と開葉の展開は実際にはほぼ同時に進行する現象ではあるが、花芽が休眠中に大きく成長しているため、見かけ上では花の展開が芽生えの展開に先行するように現れるか、あるいは、仕組みとして開花と開葉は別々に制御されており、場合によっては開花の結果ももたらされるシグナルが芽生えのスタートに関連しているとも考えられます。何れの仕組みによるにしても、結果として生ずる開花と開葉の時間差は植物にとっては重大で、受粉の過程が影響する可能性が高いと思われます。受粉の効率化の視点(風媒性や虫媒性にも関連、関係する植物の行動)から解析がなされているようですが、結論はまだ定まらないように私には見受けられます。どのような問題に、どのような実験をすれば確証が得られるかについて考えてみられることをお勧めします。


「どうして花が先に咲いて、葉が後からか」
この疑問をより専門的な表現にすると、このQ&Aの「桜や梅の樹は、なぜ先に生殖器官である花が咲き、後から栄養器官である葉が生えるのか」になるようです。



来年も梅をじっくりと見てみようと思います。




「観察する」まとめはこちら

無花果

5月に入って、通勤の車窓からノビルを発見。
すでに20センチ以上になっていて、白い可憐な花が咲きそうになっていました。
前日まで同じあたりをぼーっと眺めていたはずなのに、今年もやられたという感じです。
まさにノビルは「伸びる」ですね。


いえ、植物の成長も驚異的ですが、世の中、見ているはずが見ていないものに満ちているとつくづく思います。
今年はやけに、今まで目に入っていなかったものが見えては、今まで何を見ていたのかとちょっと落ち込むことがあります。


さて、少なくとも1週間に2回は通る道に無花果の木があります。いつも実がなるのを見ていました。
もう10年以上その前を通り続けています。


無花果は子どもの頃から馴染みのある植物でした。
祖父の田んぼの近くに植えられていて、夏に実がなっているところを見ていました。
そして母の大好物だったのですが、子どもにはその外見も味もあまり魅力的には映らなかったので、私は積極的に食べたいと思ったことはありませんでした。
ただ、その近所にある無花果の木に実がつき始めると、あれこれ懐かしく思いながら通り過ぎていました。


でも案外とその実ができていく季節がいつなのか漠然としか記憶していなくて、無花果は夏の果物のイメージだけでした。


4月中旬、日記がわりのメモを見ると正確には4月18日に、青く小さな実がなっているのに気づきました。
大きめな梅の実ぐらいです。
まだちょっと肌寒い日もある、こんな時期から実をつけ始めていたのかと初めて目に入ってきたのでした。


無花果で検索すると、収穫の時期は大体6月から8月ということは書かれているのですが、どのように育っていくのかについて詳しく書かれたものは見つけられませんでした。
いつも参考にさせていただいている「季節の花300」の、4月中旬に撮った写真の中に小さな青い実が写っていました。


「季節の花」とタイトルにあるのですが、無花果の場合には花の写真はなくて青い実だけです。
イチジク無花果と書く理由がWikipediaの説明に書かれていました。

新枝が伸びだすと葉腋に花を入れた袋である花嚢がつく。下のものから順に育ち、花嚢は果嚢となって肥大化する。花嚢は倒卵状球形で、厚い肉質の壁に囲まれ、初夏に、花囊の内面に無数の花(小花)をつける。


専門用語だとわかりにくですね。
「果物ナビ」というサイトの説明がわかりやすいかもしれません。

いちじくは漢字で「無花果」と書きますが、花がないわけではありません。いちじくは実の中に小さな花をつけるため、外からは確認できないのです。果実を半分に切ると赤いつぶつぶがたくさんつまっていますよね。あれが花です。


私は初夏に白い小さな花が咲いてそこから無花果の実になると、勝手にイメージしていました。


来年は、緑の小さな花囊がつき始めるところをこの目で確認したい。
また定点観測の課題がひとつ増えました。

散歩をする 58 <スミレを探す>

母の暮らしている施設は駅から遠く、最寄りのバス停も森の中の道を歩くしかないような場所です。いつもならタクシーを使う面会の帰り道、森を通らなくて良い遠回りの道を歩いてみようと思い立ちました。


それでも見渡す限り、片側は雑木林、片側は水田や畑があるのですが、車は通っても人気がほとんどない道です。
ちょっとびびりながらも春の変化を見たくて、歩いてみました。


あちらこちらに緑の草が目立ち始めて、水仙が満開になっている場所もありました。
ムスカリも咲いていたので、もしかしたらと期待したのでした。
でも、残念ながらその地域ではまだ1ヶ月ほど早いので見つけることはできませんでした。


父の面会に行く途中にあったスミレの群生桃源郷のような風景を今年も見ることができるようにと祈っていましたが、かないませんでした
反応の少なくなる父に数日毎に会いに行くのは体力的にはきつかったのですが、とても穏やかな気持ちになる時間でした。
このままずっとこの面会が続くといいなと思うほど。


息をしている父のそばにいることはもうかなわないのだという想いが、「今年はあのスミレの群生をもう見ることはないのか」という気持ちに置き換わっているのだろうと思います。


そんな時に、神代植物公園公園のつぶやきでスミレが咲き始めたという知らせがありました。


自宅の近くを目を凝らしながら歩いているのですが、今年は全くスミレを見つけられません。
神代植物公園に行けばスミレを見ることができるのですが、休日の時間はどんどんと過ぎて、出かけるタイミングを逸してしまうことがしばしばです。


いつも行き当たりばったりの散歩ですが、地図を見るとまだ行ったことがない公園が自宅のそばにあります。
家から300mぐらいのところです。


ふと思い立って、行ってみました。
子どもたちがにぎやかに駆け回って地面が踏まれてしまっているし、こんなところにはないだろうなとは思ったのですが、なんと入り口からわずか数メートルのところにスミレが咲いていました。
それなりに広い公園を一周してみましたが、そのあたりだけ咲いていました。
タチツボスミレはどうやって広がっていくのか、不思議ですね。



昨年、やはり神代植物園の「公園のつぶやき」でスミレの閉鎖果を知りました。その翌日には植物多様センターの「タチツボスミレの二刀流」という資料も公開されて、とても参考になりました。
そして、あとかたもなくなるまで、面会の道すがら、スミレを観察したのでした。


今年はこんなに近くでスミレの群生を見ることができるなんて、小学生の観察日記を始める前のようなちょっとワクワクした気持ちです。


もうひとつ、こんなに近くの公園で、区が自然保護のためにいろいろな動植物の観察をしていることを知りました。
自宅から離れた場所ばかり散歩に選んでいましたが、灯台下暗しですね。




「散歩をする」まとめはこちら

繁縷

2月の中頃になると、線路沿いの土手や道ばたに急に新緑が目立ち始めてきて、春が近づいたことを感じます。


今年も季節が巡って来て、突然初夏のような暖かさで、いろいろな花が咲き始めました。
木蓮とかコブシ、沈丁花レンギョウエニシダといった花々に目を奪われていると、いつのまにかホトケノザハコベも20cmぐらいになり花を咲かせ始めています。


あまりに一斉に芽吹く時期なので、毎年、今年こそはこの植物の成長を見続けてみようと思っても、なかなか定点観測ができずに過ぎてしまいます。
ハコベもその植物のひとつですが、今年も見逃しました。
この時期の「定点観測」は1週間という単位ではなく、「朝と夕方」「毎日」のレベルの間隔でないと、どんどんと植物は姿を変えていってしまうので、結局、毎年その変化を見逃してしまっています。


まあ、「二兎追うものは一兎も得ず」ですね。


今日もまた呪文のようなタイトルですが、ハコベをこう書くことを初めて知りました。


ハコベは、半世紀ほど前の子どもの頃からなじみのある植物でした。
ひとつは早春の草花として。
もうひとつは、小学校低学年の頃に文鳥を飼っていたことがあって、籠の掃除をしたあとに新しく摘んできたハコベに入れ替えるのが私の仕事でした。


たしか2羽ぐらいいたと思いますが、いつ頃から飼って、いつその鳥が亡くなったのかのあたりは記憶に残っていません。
ただ、文鳥のにおいとそのハコベの緑色が記憶にあるのです。
ハコベがない季節は、何を与えていたのかも記憶がありません。


春の七草」としてのハコベはあまり記憶にありません。
というのも新暦の1月どころか、旧暦の正月である2月中旬はまだ雪が積もる寒冷地でしたから、ハコベを見かけるのは3月に入ってからだったのではないかと思います。
今のように「春の七草セット」のようにお粥用に売られているわけではなかったので、未だに私の中では春の七草とつながらずにいます。


20代に入ってから聖書に関心が出始めてから、新約聖書のある箇所を読むといつもハコベを連想していました。
マタイによる福音書の「思い悩むな」(6章)の以下の部分です。

だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉におさめもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる


たぶん、日本では春先のたくさんの幼鳥が生まれ育つ頃に、ハコベを始めとした植物もまたたくさん育って餌として備えられている、そのような連想で記憶されたのだと思います。
ただ、日本でも野の鳥がハコベを餌にしてついばんでいるところを見たことがないし、新約聖書が作られたイスラエルパレスチナのあたりの野鳥や植物の生活史も多種多様なことでしょう。


最近はハコベを見るとそのあたりも思い起こされて、自分の思考というのはイメージによってなりなっていることを注意喚起してくれる植物になりました。




聖書について言及した記事のまとめはこちら

ロウバイ

今年はなかなか梅が咲かないので、そのぶん、ロウバイに目がいきました。


1月の寒い頃にチラホラと黄色い花が目につき、その香りもまた春の到来を心待ちにさせるものです。
ロウバイの見頃になると、近くにもいくつか有名な場所があるのですが、ロウバイだけを見にいこうというほどの関心はありませんでした。


今年は、その黄色い花を見つけると、うれしくなって近づいていました。
梅を探しに行った葛西臨海公園新宿御苑でも、ロウバイの本数は多くないのに遠くからでもその黄色い花がわかり、そして風で香りが運ばれてくるのでした。


なんて素敵な花だったのだろう、なぜ今まであまり目に入っていなかったのだろうと、半世紀ほどの時間を無駄にしたように思いました。
きっと、例年通りに梅が咲き始めていたら、やはりロウバイの存在は気にならなかったことでしょう。


いつも参考にさせていただいている「季節の花300」の説明にも、「お正月頃から咲き出す。花の少ない季節に咲く、うれしい花です」と書かれています。
本当にそうだと、今年は思いました。
花のひとつひとつはそれほど目立つわけではないのですが、咲いている場所を探し出したくなる花かもしれません。


新宿御苑でも、ロウバイが数本まとまって植えられているところがあり、50メートルぐらい離れたところからもその香りがわかりました。


近づいてみて、二種類のロウバイがあることを初めて知りました。
私がロウバイだと思っていたのは「素心ロウバイ」だそうで、「季節の花300」の説明にあるように、「花の外側だけでなく、内側も黄色いのが特徴」です。
その横に、花びらが長細くヒラヒラして内側が紅色の種類が植わっていて、「ロウバイ」とだけ書かれています。


「ヤサシイエンゲイ」の「庭木などで親しまれるソシンロウバイ]に、その説明がありました。

ソシンロウバイロウバイの園芸品種とされます。黄一色で、花びらが丸っこくて芳香が強いのが特徴です。花色が濃くて遠目からでも目立ちます。
公園や庭先などによく植えられており、ヘタをすると通常のロウバイより見る機会が多いのではないかと思います。こちらを通常のロウバイと思っている方も多いかもしれません。
ソシンは素心とカキ、本来は複数色になる花色が単色になった品種のことを指します。


いやあ、本当にこちらをロウバイだとずっと思っていました。
毎年のように見ていた花でも、知らないことや目に入っていないことがたくさんありますね。
ヒヤリとすることが増えました。


それからもうひとつ、ロウバイのイメージとは違うユニークな形の実がまだ木についていました。
ロウバイは身近にあったのに知りませんでした。
花のあとに、どう変化していくのでしょうか。
定点観測をしてみたくたりました。

観察する 43 <梅の開花宣言>

例年なら12月にはぼちぼちと咲き始めている梅の木が、近所にはいくつかあるはずなのに、今年は本当に咲きません


他の場所ではどうなのかと、葛西臨海公園まで足を伸ばしてみました。
途中の電車の車窓からも、梅の花は見かけませんでした。
広い園内を散策してようやく、咲き始めている白梅を2本ほど見つけました。
一分咲きにも満たない0.1分咲き、いえ、0.01分咲きといった感じです。


この世から梅が消えてしまったのではないかという妄想をいだくほど、今年は梅の花が遅いようです。


それでも、わずか数個の花なのに、あたりには梅の香りが漂っていて幸せな気分です。
満開の水仙も堪能して、帰路についたのでした。


<生物季節観測>


ところが、19日に気象庁から「東京でウメ開花、平年より一週間早く」というニュースがあり驚きました。
私は「遅い」と思っていたのに、「平年より一週間早い」という感覚のズレは、どこからきているのでしょうか。
私の住む地域では、毎年のように12月には梅が咲き始めています。
年によっては、 12月中に五分咲きぐらいになる木もあったと記憶していますが、この開花宣言はどんな条件を基準にしているのでしょうか。


また、桜の開花宣言は春のニュースの定番ですが、梅にも開花宣言のようなものがあることを初めて知りました。
気象庁のホームページを見ると「生物季節観測の情報」があり、その中に梅がありました。
「全国の気象官薯で統一した基準によりうめ・さくらの開花した日、かえで・いちょうが紅(黄)葉した日などの植物観察や、うぐいす・あぶらぜみの鳴き声を初めて聞いた日、つばめ・ほたるを初めて見た日などの動物季節観察を行っています」と書かれています。


梅にはどんな「統一した基準」があるのかについては書かれていませんでしたが、検索していると各自治体で梅の開花状況を載せているところがけっこうありました。


たとえば世田谷区は「羽根木公園の梅の開花状況」があって、公園内に植えられている約650本の梅の開花本数を一週間ごとに数えて公表していました。
すでに12月26日の時点で12本の梅が開花していたようで、「1月16日までに開花した梅は71本で、内訳は白梅が45本、紅梅が26本です」とのこと。


私の家の周囲では、なぜか今年はまだ梅はつぼみの状態でひとつも咲いていないのですが、例年通り12月には咲いていた場所もあるようです。
私の中では「梅の開花時期は12月」なので、気象庁の基準より気が早かったのかもしれませんね。


それにしても、どんな方々が毎年梅を観察し続けていらっしゃるのでしょうか。
そしてどんな知識と経験が必要なのでしょうか。
気になっています。




「観察する」まとめはこちら

観察する 42 <梅はまだか>

が好きで、12月になるとつぼみがふくらんで今か今かと咲き始めそうになる木を探しては楽しんでします。
ところが、今年はまだ1月になっても咲いている木が身近なところにありません。


通勤の車窓からも、12月になるとボチボチと咲き始めている木があるはずなのですが、今年は全く見かけないのです。
Wikipediaでは開花時期が「毎年2月から4月」になっていますし、「季節の花300」では「1/20~4/5頃」になっています。
12月には咲いていたというのはもしかしたら思い込みかと思い、過去の記事を拾い出してみました。


昨年2月に書いた向島百花園の梅を観に行った記録では「付近の家では12月にもう梅が咲いていた」と書いていますし、狂い咲きが早咲きかでは、その前の年も「12月中に紅梅が咲き始めていた」と記録していました。
思い込みではなさそうです。


2015年、2016年の年末と昨年末で、何か天候に大きな違いがあったのだろうかと思い返してみるのですが、思いつきません。
梅の開花に何が影響するのでしょうか。ちょっと気になりました。



検索すると、2013年に水戸地方気象台から発行された「ウメの開花について」にこんなことが書かれていました。

 開花に影響を及ぼす気象要件はいろいろあると思われますが、ここでは開花前の気温との関連を見てみました。
 右図では前年の12月と当年1月の2ヶ月平均気温の平年差とウメ開花日の平年差を表したものです。図左半分では、2ヶ月平均気温が低いと開花日が遅れる傾向がはっきり見て取れますが、右半分(気温が高い場合)では、開花の早晩ではっきりした傾向はみられません。

 つまり、前年12月と当年1月の2ヶ月平均気温が、平年より低い場合は梅の開花は遅くなる傾向にあり、平年より高い場合には開花の早晩に特徴はありません、ということです。


例年に比べて寒いとは感じなかったのですが、都内の平均気温が低めだったのでしょうか?


「水戸気象台では1953年からウメの開花を観測している」とありますが、検索していると「果樹の気性的適地に関する研究 (4)ウメの開花結実と冬の気温」という1966年の論文が公開されていて、「緒言」には以下のように書かれていました。

 ウメは年による豊凶の差が著しく、毎年安定した収量をあげている地方はきわめて少ない。これは、品種改良や栽培技術の進んでいないことに起因する一方、その年の気象によって作柄が著しく左右されるためである。すなわち、ウメは気象の影響をもっとも受けやすい果樹の1つである。

 ところが、ウメと気象の関係について解析したものはきわめて少なく、したがってウメの気象的適地条件についてもほとんど論じられたものがない。この理由として、ウメの起源がきわめて古く、実生の偶発などによる在来種が栽植の大半を占め、しかも産地毎にその品種が異なることが、気象的解析を困難にしたものと考えられる。

1966年といえば私が子どもの頃ですが、5月になると家庭用に梅の実がたくさん出回っていましたから、むしろ梅は日本のどの地域でも観察されて、その育て方が古くからわかっているものだと思っていました。


昔の人は、梅の花を「まだか」と楽しみにしていただけでなく、もっと切実な思いで開花を待っていたのかもしれませんね。




「観察する」まとめはこちら

ぼたん

東京ズーネットの1月8日のtweetに、「おとなになったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝いはげます」というメッセージとともに羽ばたいて飛んだハシビロコウの動画があり、無性にハシビロコウに会いに行きたくなりました。


ということで上野動物園へGO!となったのですが、その日は成人の日の振り替えで休園日でした。
出勤日がカレンダー通りの仕事ではないので、世の中の連休のことをすっかり忘れていたのでした。


せっかく来たので、普段は素通りをしているところも歩いてみようと思ったら、「上野東照宮 ぼたん苑」の看板が目に入りました。
冬ぼたんの展示が2月中旬まで行われているということで、ふらりと入っていました。


道ばたの草花が目に入るようになって10年余り過ぎたのですが、メジャーな花や展覧会というのはあまり関心がありませんでした。
散歩をするようになって、こうした植物園や展示を見るようになって、手間ひまをかけて育てていることはもちろん、そこにはそれぞれの植物を詳細に観察してその生活史を明らかにする努力なしには、花は咲かない(再現されない)ことに圧倒されています。


ところで、ぼたんってどんな花だったでしょうか。
もし絵を描けと言われたら、シャクヤクダリアともつかない花になりそうです。


苑内に入ると、まず印象的だったことが、ひとつひとつのぼたんに藁囲いがされていることでした。
それが「冬ぼたん」で、さらに「寒ぼたん」があるそうで、その違いがパンフレットに書かれていました。

 毎年元日から2月中旬まで当苑でご欄いただける牡丹には、「冬ぼたん」と「寒ぼたん」の2種類があります。
 牡丹には早春と初冬に咲く二期咲きの品種があり、このうち低温で開花した冬咲きのものが「寒ぼたん」と呼ばれています。気候に大きな影響を受けるため、着花率は2割以下と低く、咲かせるのが極めて困難となっています。
 それに対して、春と夏に寒冷地で開花を抑制し、秋に温度調節をして冬に開花させるという特殊な栽培の技術を用いて咲かせたものが「冬ぼたん」です。
 花の少ない冬、縁起花として新春に華やぎを添えるため、丸2年を費やし育成される「冬ぼたん」。藁囲いの下で、楚々と咲く可憐な姿は、見る人の心を魅了します。


丸2年を費やすところにもちょっとめまいがしそうでしたが、Wikipediaの「ぼたん」の「園芸」に書かれている、「従来は種からの栽培しかできなくて正に『高嶺の花』であったが、戦後に芍薬を使用した接ぎ木が考案され、急速に普及した」という箇所に、それにはどれだけの試行錯誤や失敗があったのだろうと、その行間の重みを感じました。


ぼたんというと、なんだか華々しくて私の好みではないと思い込んでいたのですが、目の前の花はまさに「楚々として可憐な花」でした。


もうひとつ、この上野東照宮ぼたん苑は「1980年(昭和55年)4月、日中友好を記念し開苑」とあります。
1972年のパンダと1980年のこのぼたん、贈られることが決まってからの40〜50年間というのはあっという間のようで、考え出すと人間の社会にはめまいがしそうなほどの時代の変化があって、でもそれを感じさせない動物や植物の存在がまた大きく感じられたのでした。

10年ひとむかし 29 <野菜や果物の保存>

昨年は本当にたくさん柿を食べました。
12月に入ると柿が店頭から消えて寂しいと書きましたが、今も冷蔵庫にいくつか入っています。


いつ頃からだったでしょうか、私が行くスーパーに個別包装の柿が出回るようになったのは。
たぶん、ここ数年ではないかと思います。
少し風味は落ちますが、まだもう少し柿を食べ続けたいと思う願いがかなうようになりました。
しかも、柔らかくなりすぎず、ほどよい歯ごたえを維持しています。


ほんと、すごい技術ですね。


日常的にピーマンを始め、こうした野菜や果物の保存袋の恩恵を受けているのですが、最近は、あまりにも当たり前の感覚になってしまうことがあります。


冷凍庫と電子レンジが家庭に普及した1970年代は、肉や魚の保存が家庭でもできるようになりました。
それでも、まだ冷凍技術も解凍技術も今に比べると悪かったので、味は落ちたような記憶がありますが。


冷凍野菜もぼちぼちと店頭に並ぶようになったのですが、まだ野菜は生のまま購入して腐る前に消費するものでした。
葉もの野菜は紐でくくられて、何も包まれていない状態で売られているものがほとんどだったので、家に帰ってから新聞紙にくるんだり少しでも保存できるように工夫していたような記憶です。


80年代頃だったでしょうか、今の家庭用の野菜保存袋が発売されました。
値段が高めでしたが、たしかにその袋にいれるだけで鮮度を保てるようになりました。
ただ、高価だったので洗って使い回す手間がかかり、結局、使うのをやめました。


そのうちに、葉もの野菜が現在のような保存袋に入って売られるようになり、さまざまな野菜や果物に応用され始めました。
通常の冷蔵庫でも日持ちがよくなり、「あ、買っていたのを忘れた」と冷蔵庫の奥から見つけてもけっこう新鮮で、ゴミになることが少なくなりました。
保存袋はゴミになるのですが、資源ゴミとしてリサイクルできるようになり、子どもの頃から考えると夢のような生活です。



この野菜の保存袋の歴史についてずっと気になっていて、時々検索したり、書店でも探してみるのですが、見つからないままです。
どなたかご存知の方がいらっしゃったら、是非おしえてください。


冷蔵庫には年末に購入したキャベツやピーマンが健在です。
そして、天候不順でも大災害のあとでも、いろいろな種類の野菜を年中食べることができるのは、産地リレーという生産と流通の皆さんの努力とともに、この保存袋の進化もあるのだろうと思います。



「10年ひとむかし」まとめはこちら
ごみについてのまとめはこちら

数字のあれこれ 28 <柿の種>

12月も中旬近くになると、店頭からが消え始めるので悲しいです。


秋から冬の初めにかけて、その年によっても嗜好が変わるのですが、リンゴばかり毎日食べ続ける年もあれば、柿だけを食べ続ける年があります。
今年は、無性に柿が食べたくてここ2ヶ月ぐらい、毎日食べていました。


子どもの頃の柿といえば地元で採れる細長い柿がほとんどでしたが、いつごろから現在のような平たい形の柿が主流になったのでしょうか?
それとともに、種無し柿に変化したのはいつごろなのでしょうか?
記憶があいまいです。


以前は柿に種があるのは当たり前で、切る時に種に当たると危なっかしく、食べる時にも思わず種を齧りそうになりましたが、今はそういう手間もなくなりました。
種の部分も実に置き換わったのでちょっとお得感もありますね。
たまに種がある柿にあたると、むしろ懐かしさを感じます。


農林水産省の「消費者の部屋」に「こどもそうだん」があって、「種(たね)がない柿(かき)があるのはどうしてですか」というQ&Aがありました。

果物(くだもの)は、ふつうおしべから花粉(かふん)が出て、めしべに受粉(じゅふん)して、実が大きくなります。しかし、柿の中でも受粉しなくても実が大きくなる品種(ひんしゅ)があります。これを単為結果(けっか)といいます。例えば平核無(ひらたねなし)や刀根早生(とねわせ)という品種です。
6〜7月ごろは小さな種のようなものがありますが、しだいに消えてしまいます。ただし、冷夏の年などには、ちいさな種が残ることがあります。温州(うんしゅう)みかんやバナナ、イチジクなども種がないのは同じわけです。


へーなるほど、と勉強になりました。
でも「単為結果」の知識の序の口にすぎないわけで、「わかる」というのにはほど遠いレベルですけれど。


<柿の種の黄金比



今日のタイトルで、まずお菓子の方を思い浮かべる方の方が多いのかもしれません。
ええ、本題はそちらです。
11月に「マツコの知らない世界」で、柿の種の「ピーナッツとの黄金比」が1:4だか1:5という話題がありました。


落花生大好きな私としてはそれでは物足りなくて、別に購入したピーナッツを混ぜて「1:1」、いえ「2:1」ぐらいにまでしています。
ですから、あの「柿の種」の6パック入りにも「ピーナッツ:柿の種=1:1」以上の小袋を入れてくれたらうれしいのにと思っていたくらいです。


というたわいのない数字をその番組を見て思いついたのですが、黄金比という言葉が気になってWikipediaを検索してみたら、最初から数式の羅列で、数字が苦手な私はそっと閉じ・・・。


あ、でもその前に「関連項目」の「フィボナッチ数」が目に入りました。
ええ、もちろん全然わかりません。でもどこかで目にしたその言葉をもう少し知ってみたくて、リンク先のWikipediaを開きました。
で、また数式の羅列で・・・。


そこをすっ飛ばしながら、「その他の話題」という私にとっては「わかりやすい話」に目がいきました。
「フィボナッチ数は自然界の現象に数多く出現する」として、こんな例が挙げられています。

*花びらの数はフィボナッチ数であることが多い。
*植物の花や実に現れる螺旋の数もフィボナッチ数であることが多い。
パイナップルの螺旋の数は時計回りは13、反時計回りは8になっている。


正確観察を続けるからこそ、自然の法則性も数字になるのかとちょっと感動しました。


「柿の種」で検索していたら、「カキの種子数と種子の大きさとの関係」という論文がありました。
内容はよく理解できないのですが、こういう測定ひとつにも定義や方法があり、「ただひたすら観察するという原始的な方法」によって何かが明らかになるのですね。
たとえ自分が生きているうちではなくても。


あれ?
「柿の種」のピナーッツを増やして欲しいという話が、大層なことになってしまいました。



「数字のあれこれ」まとめはこちら