院内助産とは 27 <「寄り添う」の違和感>

妊娠・出産の中で「寄り添う」という表現が使われるようになった理由のひとつとして、「産婦さんをひとりぼっちにさせない」ことの表明ではないかということを前回書きました。


別の視点から見ると、助産師の英語訳であるmidwifeを意識しているところもあるのではないかと思っています。


midwife。
それは「女性と共にいる」という語源があることを、助産師であれば幾度となく耳にし、それを誇りに思うところが多少なりともあるのではないでしょうか。
私も助産婦学生時代に聞いたときには、なんだか誇らしい気持ちになりました。
日本語の「出産を助ける婦人」というそのままの名称よりは、もっと哲学的な意味もこめられたような何か魅力を感じる言葉でした。


1950年代に世界中で始まった出産の医療化の中で、助産師は自らの役割と働く場所を変更せざるを得ませんでした。
1980〜90年代にかけて、そして現在も尚、世界中の助産師は自らの仕事の独立性を何とか保とうと運動を続けています。


そういう運動の中で、midwifeという言葉とその意味は、助産師の気持ちを鼓舞するのに十分なプロパガンダ性を有したのかもしれません。


そして現在では出産だけでなく思春期も更年期も含めて、「女性の一生に寄り添う仕事である」ことがあらたに助産師の職務であると、国際助産師連盟は決めました。


本当に世の中はそこまで助産師に求めているのかどうかは不明なまま。


<「寄り添う」に対する違和感>


話が遠回りになりましたが、私個人は「寄り添う」という表現になんというかぞくぞくするような違和感を感じるのです。
私自身はもし誰かに「あなたに寄り添います」と言われたら、いえいいですと答えてしまいそうです。


「寄り添う」という言葉は、もちろん対象がいなければ使うことはないものですが、そのベクトルは「私」に向いているからなのではないかと思います。


「産婦さんに寄り添っている私」というように。
その言葉は一見産婦さんを大事にしているようで、弧を描いて「大事にしている私が大事」という部分を計らずも表現してしまっているのかもしれません。


似たようなことを「他者に関心を持つということ1<自分探し>」http://d.hatena.ne.jp/fish-b/20120506で書きましたが。


<commitmentとinvolvement>


私が「寄り添う」に感じる違和感のヒントが、今回ベナーの看護論の「達人(Expert)」の定義にありました。

また達人看護師の特徴として、患者に傾倒すること(commitment)、状況に巻き込まれること(involvement)が挙げられる。

この一文だけを読むと、悲嘆で崖っぷちにいる患者さんに自分を捨ててのめり込んでいくドラマの中の医療従事者を思い浮かべそうになりますが、実際は反対のことを表現しようとしているのだと思います。


「患者に傾倒すること、状況に巻き込まれること」という日本語訳では、もとのcommitmentやinvolvementに含まれる「責任」「冷静に」というニュアンスが出ていないような気がしますね。


ベナーの達人看護師の「患者に傾倒すること、状況に巻き込まれること」状況をもう少し言い換えてみると、こんな感じでしょうか。

目の前の患者さん(あるいは妊産婦さん、褥婦さん、そして新生児)に起こりうる問題点を予測できる。
その問題点と解決方法の一般的な見通しの予測が立てられる。
一般的な解決方法とともに、その目の前の患者さんの個別性が理解できる。
どの時点で、どのような説明や対応が必要かどうか予測し、実施できる。


つまり深い共感的な感情によって相手に関わろうという自発的な意思とともに、相手の状況を冷静に専門的な視点でとらえ、相手が自身の力で問題解決に向かえるように関わる態度を持ち、そのプロセスに専門職としての責任を持つということだと思います。


「寄り添う」も同じように使っています、という声もあることでしょう。


違いは何でしょうか?
それは「見て見ぬふりをしない」とでも言えるでしょうか。また、「結果を求めない」とも言えるかもしれません。


目の前の患者さんが精神的に不安定だったり家族間の問題を抱えていたり、「今、介入したほうがよい」ことがあっても「そこまで関わらなくても回復には関係ないから」あるいは「自分にはとても解決できないから」と目と心を閉じてしまうこともあるでしょう。
通常の看護から大きく一歩を踏み出す必要がある時、そのかかわり方がうまくいくかどうかはわからないけれど「私も一緒に考えさせてください」と相手に飛び込んでいくことでもあると思います。


相手に飛び込んでみたものの、そういう時にはそれが良かったのかどうかはわからないままのことが多いものです。
相手は自分の中でもがき自分で答えを出そうとしている最中ですから、こちら側の関わりにも気づかないこともあるでしょう。
こちらも心を痛め眠れないほど一緒に悩んだり解決策を考えても、気づかれることも感謝されることもなく過ぎるかもしれません。


看護の中にはそうした「見て見ぬふりをしない」で深く関わる必要がある時と、自分が関わったことの「結果を求めない」気持ちの強さのようなものが必要なのではないかと思います。


「寄り添います」の先にあなたらしいお産とか親子の絆など「こんなにうまくいきますよ」というアピールがされていると、やっぱりそれは「寄り添っているすばらしい助産師」のアピールに聞こえてしまうのです。
そしてそれはなぜ「正常に経過した妊婦さん」という条件づきになるのでしょう。


そういうプロパガンダ的なものを掲げれば掲げるほど、真の達人とは離れていくように思います。




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