運動のあれこれ 10 <「ケアする側の声はイデオロギーになりやすい」>

先日、市議会議員が乳児を連れて登庁し、乳児が議会場から退出させられるニュースがありました。


なんだか不意打ちをされたような唐突感のあるこのニュースに、気持ちがかき乱されるような感じを受けるのは何故だろうと、あれこれと考えてしまいました。
こんな時には、多様な意見というか感情を知ることができるtwitterは便利ですね。
私はtwitterはしていないのですが、うさぎ林檎さんのtwilogから、そのニュースへの反応を読ませてもらいました。


まずあのニュースに感じた唐突感の理由はこれだと思ったのが、登庁から乳児を退場させられて涙を流すところまで、予定されていたかのように映像があったことを指摘していたtweetでした。
そうだ、まるでニュースとして報道されることがわかっていたかのように準備されていた、そのあたりでした。


つまり、何かあらかじめそこには観る人の感情を揺さぶることで、強い主張を社会に広げる意図があったのだと思います。
何かmovementを起こすための戦略的な映像だったのだと。


そして、以前、どこか欧米の国で乳児を連れて議会に出席している女性議員の写真に、ふと「寛容でいいな」と思いつつ何か危うさを感じたことの理由が少し見えてきました。


それは、育児ではなく保育のほうがより本質的な言葉かもしれないに通じるのですが、「育児」と言う言葉には「ケア」という概念と両立しにくい何かがある、というあたりでしょうか。


冒頭の市議さんは、我が子がもし病児や障害児であっても議場に連れて行っただろうか。
家族の中に介護を必要とする高齢者がいたとして、その人を預ける先が見つからないからと議場に連れて行って問題提起をしただろうか。
「議会に連れて行っていはいけない」「職場に連れて行ってはいけない」と闘う以前に、連れて行くことそのものが、ケアされている側には負担になるという躊躇が起こるのではないかと思います。


ところが、なぜ乳児であれば良いと考えるのでしょうか?


「ケア」の語源と意味で紹介した本の中に書かれている以下の部分が、「育児する人たちに寛容な社会」のイメージと対に感じる危うさの理由かもしれません。

ケアの受け手と与え手の関係は非対称である。なぜなら相互行為としてのケアの関係性から、ケアの与え手は退出することができるが、ケアの受け手はそうではないからである。この非対称な関係は容易に権力関係に転化する

ケアというと介護や看護に使われやすいのですが、保育の対象である乳幼児に対してこの概念がなかなか広がらないから、ケアする側の声はイデオロギーになりやすいのかもしれません。


冒頭のニュースの映像も、保育の実際の問題に対していかに感情を一旦切り離し、いかに多様な視点から物ごとを掘り下げていくことができるかという段階を飛ばして、社会の感情を揺さぶり、自分がよいと思うことを闘争的に伝えようしたイデオロギーになってしまったのが残念でした。


もう少し続きます。



「子連れ」に関する記事をこちらにまとめておきます。


ケアとは何か 20 <乳児保育の質とは>
10年ひとむかし 27 <「22才の別れ」の感じ方>
実験のようなもの 5 <仕事場に子どもを連れて行くこと>
実験のようなもの 6 <同じ方向を求めていたつもりが全く違う方向になることがある>
事実とは何か 45 <「お母さんと赤ちゃんが一緒にいられる」ための運動とは何か>
運動のあれこれ 11 <「イクメン」という運動がもたらしたもの>
つじつまのあれこれ 12 <現実と理想(好み)の話でつじつまがあわなくなる>


「運動のあれこれ」まとめはこちら