目から鱗 1 <思い込みから解放される一瞬>

はっと我に返るような出来事、あるのではないかと思います。
たとえば<何のための母乳なのか>に書いた私自身の体験のように。
あるいはその記事に書いた、私の一言で「目から鱗」のように感じられたお母さんのように。


目から鱗がおちる」の意味について「語源由来辞典」では以下のように説明されています。

目からうろこが落ちるとは、何かがきっかけとなり、急に視野が開けて、物事の実態が理解できるようになることのたとえ。

言い替えると、思い込みで全体が見えなかったものが見えるようになる、という感じかもしれません。


「故事ことわざ事典」の「注釈」に、このことわざの由来が書かれています。

新約聖書使徒行伝第9章にある『The scales fall from one's eyes』という言葉に基づくキリスト教を迫害していたサウロの目が見えなくなったとき、イエス・キリストキリスト教徒に語りかけ、サウロを助けるようにとキリスト教徒のアナニアに指示した。アナニアがサウロの上に手を置くと、サウロは目が見えるようになり、この時サウロは「目から鱗のようなものが落ちた」といっている。


<サウロの回心>


上記の箇所は聖書を通読していた私にはなじみの箇所です。少し長いのですが、新約聖書の「使徒行伝」第9章の「サウロの回心」をそのまま紹介します。

 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従うものを見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。
 サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目がみえるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」
 しかしアナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼びも求める人をすべて捕えるため、祭司長たちから権限を受けています。」すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、私は彼に示そう。」
 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。
日本聖書協会、新共同訳より)

この後、サウロはパウロとしてキリスト教を伝道し、最後は殉教者となり聖パウロと呼ばれます。


聖書の読み方はいろいろあって、私は「その時代の権力によって編集されたものとして批判的な視点を持つ」という読み方を教わりました。


ですからこのサウロの回心も、「神の声が聞こえた」「目が治った」など、「奇跡が本当か」という部分にとらわれてしまうと全体のメッセージが理解できないかもしれないと、私自身は解釈しています。


この「ハッとして目の前が開けるような経験=目から鱗」の説明として、ちょうどこの記事を書くにあたって、「回心」と打ち込んでいるときに表示されるMacの辞書に書かれていたことがわかりやすいかもしれないと思いました。

回心(かいしん)


あるきっかけで、従来の生き方を悔い改め、新しい信仰に目覚めること。宗教的思想や態度に劇的な変化が生じ、それまでの分裂・葛藤状態が解消し、統合された新たな自我が生まれる体験

宗教的思想だけでなく、日々、私たちは「自分が生まれ変わるかのような」体験があると思います。


それはどんな時かと自分自身を思い出すと、何か自分を打ちのめすような失敗によって、それまで思い込んでいた事に気づかされ、もっと広い視野で理解できるようになる体験です。


たとえば「ほとんどのお産は正常に終わる」と「自然なお産」に傾倒していた時に、「お産にはこんな怖い事があるのか」と考えを改めさせられたことや、「母乳だけで大丈夫」と思っていた時に<体重減少-13%>に書いたように「こんなふうに追い込まれるお母さんがいるのか」と気づかされたことなどです。


目から鱗、案外、日常の生活にはたくさんあるのかもしれません。
でも自ら生まれ変わる機会にあえて目をつぶっている、そんなことが。


思い込みとは「全体」を知らないのに知っているつもりになるから起こる。
その自分の思い込みによる失敗を認める。
それは宗教的というよりもむしろ科学的な態度に近いと思うこの頃です。




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