散歩をする 124 恵比寿から白金台へ

今日のタイトル、とてもおしゃれな散歩のように聞こえますが、かねてからずっと気になっていたビール工場跡地を確認する散歩です。

 

恵比寿というと、1980年代前半の記憶では、今の山手線の内側に大きなサッポロビールの工場がありました。

当時はまだ埼京線などがなくて、あの辺りはたしか山手線と貨物専用の線路だけで、しょっちゅう貨物列車と行き交っていた記憶があります。

山手線沿線は30〜40年前と景色がほとんど変わらないような場所と、恵比寿や大崎周辺のようにその変貌の激しさに驚く街とがあります。

 

恵比寿を通過するたびにあの工場のあった頃と、1980年代終わりに工場の跡地にビアガーデンができた頃、そして今の恵比寿ガーデンプレイスと、3つの時期の風景が重なり合って、何度通っても今の景色が幻のような不思議な感覚に陥る場所です。

 

そのビール工場があった場所を、以前も訪ねて歩きました。

1980年代前半に工場のそばを通過している時には広大な平地にしか見えませんでしたが、おしゃれなガーデンプレイスになってから、よくよくみるとウエスティンホテルやマンション群のある南側は切り立つような斜面になっています。

小高いところにあの工場があったことがわかりました。

三田用水を訪ねて歩いたことで、そこに工場あった理由がわかりました。

 

そうなると、今度は高低差が気になり出しました。恵比寿駅と目黒駅の間に、ガーデンプレイスと白金台に挟まれたように低い場所があり、ガーデンプレイスの斜面に沿って細い道があります。

山手線の車窓から見える、あの細い道を歩いてみたい。

恵比寿駅からその高低差を歩き、白金台へと上り、国立科学博物館付属自然教育園まで歩いてみよう、散歩のコースが決まりました。

 

恵比寿駅を降りてガーデンプレイスまで歩き、そこからはほとんどの人が目指すガーデンプレイスからそれて、エビスビール記念館の方へ向かい、ウエステインホテルの脇の道に入ります。

右手はガーデンプレイスの急な斜面と少し鬱蒼とした植え込みが続き、左手は普通に住宅街が続く道ですが結構な下り坂でした。

ここがあのビール工場の裏手だったのかと、大げさでなく感無量でした。

 

恵比寿の「概要」に歴史が書かれています。

1887年(明治20年)、日本麦酒醸造株式会社(サッポロビールの前身)がこの地に工場建設用地を取得し、2年後の1890年(明治23年)に発売されたビールは、「ゑびすビール」と名付けられ人気を博した。翌1891年(明治24年)には、ビールの運搬のために日本鉄道品川線(現在の山手線)に貨物駅が開設され、「恵比寿停留所」と命名された。 

私が見ていた工場は、この地でビールが造られてちょうど一世紀ほどたった頃だったようです。

 

渋谷区が出版した「渋谷の記憶」では、「明治末期 大日本麦酒工場正門」の写真があります。その写真をみると、工場の左側に切り立つような斜面が写っています。ここがこの日に歩いた道かもしれません。

 

また「昭和26年 恵比寿駅」の写真にこんな説明が書かれています。

明治34年(1901)に「恵比寿ビール」の積み出し専用駅として開業した恵比寿停車場は、39年に一般の客も利用できるようになりました。 

 「昭和20年代 恵比寿駅前」の写真では、「線路の向こう側にはまだ林などが多く残って降り、貨物用の線路には蒸気機関車が走っています」と書かれているので、工場のあった山手線の内側は、まだ人寂しい場所が多かったのかもしれません。

 

坂道を下ると山手線から見える踏切があり、「長者丸踏切」という名前であることを知りました。

そこから北へ白金台方面へ、今度は上り坂です。

坂を登りきると、邸宅が立ち並ぶ一角がありました。この辺りの建物にも「長者丸」が使われているものもあり、その由来はなんだろうと検索してみましたがよくわかりませんでした。

 

首都高目黒線の反対側は、鬱蒼とした自然教育園の森が広がっています。

「沿革」にはこんな歴史が書かれていました。

自然教育園を含む白金台地は、洪積世(20~50万年前)海食によって作られました。

いつ頃から人が住み着いたかは不明ですが、園内から縄文中期(紀元前約2500年)の土器や貝塚が発見されていることから、この時代には人々が住んでいたと考えられます。

平安時代には目黒川、渋谷川の低湿地では水田が開墾され、台地の広々とした原野には染料として欠かせなかったムラサキの栽培も広範囲に行われていたと考えられています。室町時代に入ると、この地方にいた豪族がこの地に館を構え、今に残る土塁は当時の遺跡の一部と考えられています。この館の主が誰かは不明ですが、白金の地名は永禄2年(1559)の記録に初めてあらわれ、太田道灌のひ孫の新六郎がこの地を治めていたことが記録されています。また、いわゆる「白金長者」であったという言い伝えも残っています。

江戸時代になると、増上寺の管理下に入りましたが、寛文4年(1664)には徳川光圀の兄にあたる高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷となり、園内にある物語の松やおろちの松などの老木は、当時の造園の名残であろうと思われます。

明治時代には火薬庫となり、海軍省陸軍省の管理となり、大正6年(1917)宮内省帝室林野局の書簡となり、白金御料地と呼ばれました。

その後、昭和24年文部省の所管となり、「天然記念物及び史跡」に指定され、国立自然教育園として広く一般に公開され、昭和37年国立科学博物館付属自然教育園として現在に至っています。

 

この自然教育園のそばの交差点に立つと、一方は目黒駅方面へ、もう一方は五反田駅方面へと下り坂になっています。

山手線から見ると、険しい坂道に住宅やビルが建っているように見える場所です。

この複雑な地形が20〜50万年前に作られ、姿を変えながらいまの風景になったことを考えると、ちょっとめまいがする散歩になりました。

 

 

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