今日はタイトルだけで「そっと閉じ」の方もいらっしゃるかもしれません。
でも生きている限り、排泄と無縁ではいられないので大事な部分ですね。
ただ、下水道が完備された時代以降に生まれた世代には、意味がわからないタイトルかもしれません。
1960年前後生まれであれば、「糞尿輸送」というとバキュームカーを思い浮かべるのではないかと思います。
あるいは旧江戸川のように、昔は屎尿を運ぶ船が都内の河川を行き来していたことも川の歴史をたどっていくうちに知りました。
*鉄道で輸送されていた時代があった*
先日、武甲山へいく時に西武線を使ったことから、鉄道でも糞尿輸送が行われていたことを知りました。
Wikipediaの西武鉄道の「西武鉄道(旧)」に書かれています。
また1944年には、東京都からの委託によって糞尿輸送が開始された。当時都内の糞尿処理はトラックで湾岸へ運び船で東京湾へ捨てていたが、人手不足とガソリン統制により、処理が追いついかなくなっていた。そこで、東京都長官の大達茂雄からの要請で、武蔵野鉄道と西武鉄道(旧)と食糧増産の 3社が一体となり、専用貨車と積込所・貯溜施設を造って大規模な糞尿処理にあたることとなったのである。同年9月10日夜から普通貨車による糞尿運搬の臨時運転を開始し、11月21日には専用貨車を用いた本運転に入った。この糞尿輸送列車は、「汚穢電車」「黄金電車」「黄金列車」などと呼ばれた。
この時の輸送力はあまり高いものではなく、積込所も2ヶ所、貯溜槽も7カ所しかなかった。社長の堤康次郎はさらに輸送規模を拡大させ、当時都内から排泄されていた1日約38,000石の糞尿全てを処理できるように構想を立てた。専用貨車を115両新造して輸送能力を1日20,000石に上げるとともに、両鉄道沿線の数十箇所に糞尿貯溜槽を置き、約271,000石の糞尿をためられるようにする。そして輸送は主に深夜に行い、その帰りは貨車の上に特設台を設置し、都内向けの野菜を運搬しようというものであった。
しかし衛生面などで問題が続出してしまい、糞尿輸送は次第にその輸送量を減らして行った。書類上は1953年(昭和28年)3月30日までの契約であったが、実際には1951年に輸送が休止して以降再開されないままの廃止で、堤の輸送拡大構造は結局実行されないまま終わった。
感染症と屎尿処理で引用したように、屎尿が化学肥料にとって代えられ始めたことと屎尿の無断投棄が社会問題になったあたりでしょうか。
「屎尿の陸上投棄や海上投棄の原則禁止、総水洗化」を目標とした「屎尿処理基本対策要項」ができたのが1956年(昭和31年)のうです。
私が生まれる10年ぐらい前までは都内を糞尿輸送の列車が走り、そして海に投棄されていた。
「今この東京で出る排泄物と汚水はどれくらいなのだろう。その処理機能が停止したら」という気が遠くなる感覚から書き始めた「下水道についてのあれこれ」ですが、半世紀前から考えると、夢のような社会だと再認識しています。
「下水道についてのあれこれ」まとめはこちら。