父から言われたイデオロギーに入り込むなということが、半世紀ほど生きてようやく漠然としながらも自分の中でまとまり始めていた頃、「〇〇に入り込むな」の「〇〇」に置き換えられそうだと思う言葉が増えました。
そのひとつが「〇〇観」という表現でした。
例えば、「質の高い看護」とケアの独善性に書いた「看護観」のように。
看護は看護者ひとりひとりの「看護観」の表現であり、優れた看護実践は「優れた看護観」を欠いてはありえません。
なんだか違うなあ。
看護には患者さんや家族あるいは一緒に働く医療関係者というさまざまな「当事者」がいるはずなのに、「看護はひとりひとりの『看護観』の表現」と限定すること自体がおかしいのに。
「看護観」ってなんだろうと考えているうちにたどり着いたのが、冒頭の記事で引用したWikipediaの記述でした。
・世界観のような物事に対する包括的な概念。
そういえば、同じ頃、看護の世界だけでなく世の中でも「世界観」という言葉を耳にする機会が増えました。
たとえば芸術だけでなく、生活に使うような物事まで指して、「△△の世界観が出ていますね」とか。
「世界観」と言われると、なんだかとても洗練された言葉に聞こえます。
ところが、Wikipedia のイデオロギーにはこう書かれていました。
・イデオロギーは世界観である。
・同時にイデオロギーは偏った考え方であり、なんらかの先入観を含む。
・イデオロギーは闘争的な概念である。
ということは、「世界観とは闘争的な概念である」ともいえますね。
そして闘争的というのは、独善性が強いとも言い換えられるかもしれません。
やはり「看護観」や「世界観」に違和感を感じたのは、ここにたどり着くのですね。
看護実践とは、あくまでも現実の問題から現実の答えを見出す過程であって、特定の観念や信条にこだわりすぎては見失うことが多いのではないかと思うようになりました。
これも父の「イデオロギーに入り込むな」の一言のおかげかもしれません。
ここ10年ほどでよく耳にするようになった「世界観」という言葉は、どこから広がり始めたのか気になっています。
「10年ひと昔」まとめはこちら。