記録のあれこれ 52 「東日本大震災現地調査報告」

震災直後の初動対応の資料は震災後5年ほど経ってからまとめられたものですが、もう一つ、八沢地区干拓地と松川浦周辺の干拓地を2011年4月20日に調査した報告書が公開されていました。

「農業農村工学会災害対応特別委員会 東北関東大震災特別委員会(山形大学チーム)」による「東日本大震災現地調査報告(速報ー2)」(平成23年5月2日)です。

 

「はじめに」では「一帯の安全確認と救援作業の状況を踏まえて4月20日に日帰りで相馬市周辺の農地排水施設の被害を中心に現地調査を行った」と書かれていました。

2011年4月下旬は何をしていただろうと思い返そうとしても記憶が曖昧なのですが、Wikipediaの「福島第一原子力発電所事故」によれば、「6-9ヶ月後の冷温停止を目標とする収束工程表が、4月17日、東京電力から発表された」とありますから、まだまだ予断を許さない緊張が続く時期だったと思います。

 

たしか「相馬市」というと、津波で行方不明になった方々の捜索も原発事故のために思うように進められないといったニュースで耳にしていました。

 

そのような時期に、調査チームが「福島沿岸の福島原発のほぼ40km以北を、南(八沢浦干拓)より北へ移動し調査した」とありました。

 

報告書には、震災翌日に国土地理院によって撮影された八沢浦周辺の空中写真がありました。

図6は、国土地理院による被災前後の画像である。概ね標高5m以上のところに立地している集落が多い。しかし、津波は八沢排水機場の2階まで達し、3月12日も標高3mまで湛水していたと見られる。

図7は地震発生の翌日に撮影されたものである。平坦な地形のために湛水状態が続いている。

 

そして3月23日付の農政局による災害応急用ポンプ強制排水の写真ではまだ一面、海のように湛水が続いているのですが、調査チームが入った4月20日の写真では地面が見えています。

震災以来、農地から海水を排除するために、農政局の災害応急用ポンプによって強制排水が行われている。また、4月20日の調査時には海水の淡水域は見られなかったが、国交省のポンプ車による河川の強制排水(図10)や自衛隊のポンプ排水が行われていた。 

 

松川浦南部にある干拓地も、「被災直後には山信田排水機場が見えなくなるほどの水深であったという」とあり、4月20日時点でも瓦礫が広範囲に散乱したままの写真がありました。それ以外にも、ため池周辺の状況や排水された水の塩分濃度測定などについても書かれていました。

 

 

災害時には全国からポンプ車が集まってきて作業をすることを、西日本豪雨の時に初めて知りました。

 

あの日本のみならず世界中が原発事故の影響に震撼していた時期に、粛々と現地で排水作業やさまざまな調査が行われていたことを、この調査書で知ることができました。

 

 

調査書の最後に「歴史・文化・遺産の喪失」として以下のように書かれています。

八沢浦干拓地の八沢機場のすぐ横には土地改良区があり、干拓の記念碑があったという。改良区の建物は基礎が残るだけとなっており、記念碑も集落も流されてしまった。図25は、奇跡的に残った八沢干拓の資料や改良区の資料である。未曾有の災害は、現在の人々の生活だけでなく、これまでの歴史や未来への系譜さえも失わせてしまう。今後の防災計画では、経済的資産、人命を守ることに加えて、こういった歴史的遺産に対する配慮も必要であろうと思われる。

 

 

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