米のあれこれ 16 米原市琵琶湖干拓資料館

一周200kmある琵琶湖ですが、念願のぐるりと一周をして米原に戻ってきました。

まだ午後3時で、新幹線の時間まで3時間あります。もう一ヶ所ぐらい途中下車をしてもよかったのですが、もし時間があったら絶対に行こうと思っていたのが、地図で見つけた琵琶湖干拓資料館です。

米原駅から、水田地帯と思われる場所のまっすぐな道を20分ぐらい歩くと、琵琶湖のほとりにあります。

前日と合わせるとすでに4万歩以上歩いているのでちょっと疲れていましたが、行かなければ後悔すると思い、歩き始めました。

 

地図を見ると米原駅の西側には水田地帯が広がっていますが、その中でも南西側にぐるりと水路で囲まれた入江地区が描かれています。ここが干拓地だったようです。

 

航空写真では人気のない寂しい道のように見えましたが、道のそばには途切れることなく新しい住宅が続き、車の往来も多い道でした。

そして一晩で雪化粧をしたあの伊吹山が、ずっと背中から見守ってくれているような場所でした。

 

*琵琶湖干拓資料館*

 

次第に水路が大きくなり、水門のそばに資料館はありました。琵琶湖湖畔のすぐそばです。

資料館のパンフレットのサブタイトルには、「湖(うみ)と人の歴史」とあります。

干拓を機に発掘された、縄文時代から平安時代までの遺物が展示されていました。

 

入江内湖は面積役300ヘクタールと、内湖としては大中の湖に次ぐ広さでした。水深が最深部でも2メートルと浅かったことから、戦時中の食糧難による干拓事業が開始され、昭和24年(1949年)に完了しました。琵琶湖とは南西に位置する磯山から延びた長さ約2キロメートルの砂堆により隔たれ、砂堆の基部に磯集落があります。この辺りは東から山地が近接して北陸や東国方面に抜ける窓口として古くから交通路が交錯する重要な地域でした。 

 

パンフレットには1895年(明治28年)の頃の地図が載っていますが、隣の彦根駅の近くまで、東海道本線の線路の内側ぎりぎりのところに入江内湖と松原内湖があったことが描かれています。

 

「入江内湖干拓事業のあらまし」では以下のように説明されていました。

 入江内湖は広さが約300ヘクタール、周囲が8キロメートルに及ぶものでした。この内湖の干拓事業は、明治6年(1873年)、浅瀬を土盛りをして開田する計画が始まりでしたが、このときは実現しませんでした。

 昭和19年(1944年)、食糧増産のため国営事業として内湖全域の干拓事業が着工されることとなりました。しかし、工事開始後の一年間は太平洋戦争末期で、工事は学徒動員や勤労奉仕による困難なものでした。昭和24年(1949年)、着工してから5年目、延べ百万人もの人が従事した大事業は完成しました。

 干上がった内湖は、15アールずつに区切られ、256ヘクタールの水田に生まれかわりました。昭和47年(1972年)には揚水場の設備も整い、現在では126基の取水水門と6基の排水水門、7台の排水ポンプが稼働し、護岸も整備され、水害や干ばつの心配もなく、年収約1,100トンの米が生産されています。

 

私が生まれた頃はすでに「お米をお腹いっぱい食べたい」という願いが叶えられた時代でしたから、それより十数年前の時代の雰囲気は想像するしかありません。

 

琵琶湖干拓で検索していたら、滋賀県立図書館近江デジタル歴史街道に、『「写真週報」に見る戦時下の日本』(太平洋戦争研究会 世界文化社2011年)からの文章が紹介されていました。

 「もしこの湖の水を干して田を作ることができたらーとは、滋賀のお百姓さんたちが果てしない琵琶湖の面を眺めるたびにいつも思うことだった」(本文p4)

 厳しい 食糧難への対処として、政府による米の管理統制、耕作地の開拓や、代用食の奨励が行われました。ここに紹介されている「琵琶湖干拓事業」もその一つです。記事では、琵琶湖の周囲60数個の内湖の中から36を選び、昭和18年度から3年間で2,000町歩の水田を作る第1期計画を紹介しています。

雪に覆われる塩津内湖で堤防の抗打工事を行う伊香農学校生徒(現在の伊香高等学校)、水茎内湖の干拓に他府県からやってきた600名の学徒応援隊、松原内湖で干拓最初の稲刈りを彦根中学生徒(現在の彦根東高等学校)、中ノ湖で排水溝の工事を行う膳所中学校生徒ら(現在の善所高等学校)の写真が掲載されています。

 

 

帰りも同じ道を通って駅に戻りましたが、こういう資料館を訪ねたあとは風景がまた違って見えます。

そして冬の水田の風景は水路が見渡せて好きなのですが、今度はぜひ稲の香りに満ちた季節に、滋賀の干拓地の水路を歩いてみたいものです。

 

 

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