岡山と倉敷周辺の水田地帯がいつ頃干拓されて用水路名は何かが、「児島湾とその周辺地域の時代別干拓」にまとめられていました。
帰宅してからじっくりと見ようと写真を撮りましたが、その時点では祖父の水田は江戸時代か明治初期の干拓だろうと思い込んでいました。
児島湾干拓資料室を訪ねて2ヶ月がすぎてしまいましたが、やっとただひたすら川と干拓地を見に〜岡山から姫路へ〜をまとめはじめながら資料館の展示内容を見直していると、「もしかしたら干拓地ではなかったのかもしれない」とひやりとしました。
その地図では干拓地を「16世紀〜17世紀末/安土桃山時代〜江戸時代、元禄年間まで」「18世紀〜19世紀末/江戸時代中期〜明治維新まで」「19世紀末〜20世紀/明治〜大正・昭和」の3つの時代に分けて色分けしていましたが、祖父の水田のあたりはどれにも該当していないように描かれていました。
*「児島湾干拓の概要」*
「空からみた児島湾」という大きな航空写真の下側に、江戸時代から明治までの「児島湾の概要」がまとめられていました。
江戸時代には「沖新田」と「興除(こうじょ)新田」が開拓されて、沖新田の施工者は池田綱政で元禄4年(1691)に着工、興除新田は岡山藩主により文政4年(1821)に着工されたようです。
明治時代になると「一区」「二区」「三区・五区」が明治32年(1899)から昭和8年(1933)ごろまで藤田組によって、「六区」は藤田組と農林省によって昭和14年(1939)から、「七区」は農地開発営団・農林省によって昭和19年(1944)からとあります。
祖父の水田はこの17世紀に開拓された沖新田よりさらに内陸側で、現在の倉敷駅の南側、そして美観地区で有名な倉敷川の南側ですが、そのあたりはまるで埼(さき)のように突出して干拓地とは違う色になっていました。
干拓地ではなかったのでしょうか。
*「吉備の穴海」から干拓の時代へ*
「年表」のパネルの写真を見直すと、もっと古い時代からの干拓の歴史がまとめられていました。
吉備の穴海(あなうみ)の時代
現在の岡山・倉敷の市街地の大部分は海面下。二十余の島が浮かぶ吉備の穴海と呼ばれていた。吉井・旭・高梁川の沖積作用で次第に遠浅の海になり、これが後の干拓のベースになる。
八〜九世紀
十二ヶ郷用水湛井堰造られる。
吉備の穴海で小規模な干拓が始まる。
中国山地で、タタラ製鉄が盛んになり、岡山の三大河川で大量の土砂が流出、吉備の穴海の堆積が進む。
1182年 妹尾兼康は湛井十二ヶ郷用水大改築。
1184年 源平の藤戸合戦当時、児島は本土と離れた島だった。浅瀬の海峡は藤戸の渡しがあった。
1492年頃 八ヶ郷用水疎通する。
大規模干拓の開始
秀吉の高松城水攻めの堤防作りの技術をヒントに宇喜多秀家、干拓を始める。
1582年 羽柴秀吉、備中高松城水攻め。十二日間で約三キロの堤防を築く。
備前・備中の干潟地開発の始まり。
そして江戸時代には「寛永年間から慶応に至る240年間に約7,000haもの大干拓が行われた」ようです。
この年表を見ると、祖父の水田のあたりはいずれにしても昔は海底だったようなので、人の手による干拓地だと言えるでしょうか。
祖父の水田の歴史を知るのはなかなか簡単ではないですね。
それにしても「水攻めの堤防造り技術をヒントに大規模干拓が始まる」なんて、またまた知らない水の世界が出てきました。
*この年表は「干拓から始まる岡山平野南部地域の成り立ち」(農林水産省中国史国農政局 岡山南土地改良建設事業所)という資料が公開されていて、その中で読むことができます。
「事実とは何か」まとめはこちら。