地図で見ると、鹿島臨海工業地帯はY字の水色の部分を中心に広がっています。
大型船が入れるように、水深の深い港があるのだろうということは想像できます。
砂丘の一部を深く掘って、港が造られたのだろうと思っていました。
その工業地帯のそばに、神之池緑地公園があります。大きな池のような場所を中心にした公園です。
きっと、工業地帯の福利厚生的な公園として人工的に造られたのだろうと思いました。水色はまっすぐ、まるでプールのように四角ですから。
例えば鹿島臨海工業地帯の歴史にはこう書かれた箇所があります。
開発計画は幾度も計画変更がなされ、特に鹿島港の規模はタンカーの大型化に対応すべく大きくなっていった。開発地域の用地買収は1964年(昭和39年)に開始。最も困難だったのは、工業地帯内には民有地が多かったため、これらの土地を買収して工業用地を確保することであった。
続く「鹿島臨海工業地帯開発組合」を読んでも、「土地」の買収の話です。
年表に、一度だけ「神之池」が出てきました。
1965年(昭和40年)6月ー神栖村議会は神之池埋め立てを全員一致で可決。
神栖市歴史民族資料館では、この神之池の展示が中心になっていました。
*神之池*
Wikipediaの神之池(ごうのいけ)の概要にこう書かれています。
面積44ha、平均水深1.9m、最大水深3.5m。一帯は神之池緑地公園として整備されており、神栖市民の憩いの場である。また神栖市役所が公園に隣接している。かつては現在の7倍もの面積があったが、周辺の工業用地造成のために1969年に埋め立てられた。
「約1,400〜1,200年前に海面が下降してできた」という大きな神之池は、江戸時代ごろには池の南側に向かって何本も用水路が造られていたそうです。
江戸から明治・大正・昭和初期における神之池では、コイ・フナ・ウナギ・エビなどの魚類や、雁・カモなどの水鳥が相当多く獲れた他、藻草・葦・蒲など彗星植物が自生していた。それらが人々に自然豊かな恵みとして与えていたばかりでなく、或いは用水地として周辺村々の貴重な灌漑用水の水源として必要不可欠なものであった。
神之池と利根川の間にある各村々は、神之池に取水門を作り用水路を掘って水田に水を引いていたが、古くから水騒動が繰り返されており、1886年(明治19年)の夏、空梅雨による大干ばつで神之池の水位が低下し、奥野谷村と知手村が日川村へ引く用水路を途中でせき止めて文字通り「我田引水」したことがきっかけで、「神の池用水水路妨害事件」として事件が起き、日川村が2村を訴えた裁判がその2年後まで続いている。また、1938年(昭和13年)7月では大降雨によって神之池は増水氾濫して、地層の低い奥野谷村では水位の低下を図ろうと他の村々に無断で神之池水門を開いて利根川に排水したために濁水が溝口村・石神村・芝崎村・高浜村・木崎村・田畑村の周辺6村に氾濫し、村民たちが神之池水門に殺到し村民どうしの対立する事件が起こっている。
しかしながら、地元の民から「砂丘の中のオアシス」と呼ぶように親しまれ、湖岸は青松と白い砂丘に囲われ、静かな水面には漁をする小舟が浮かぶ風光明媚なたたずまいをみせていたという。
鹿島臨海工業地帯は神之池を埋め立ててできた場所であり、水神社はそれよりもはるか昔から、この地にあった神社だったのでしょうか。
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