行間を読む 90 才賀電気商会と鉄道

Wikipedia芸備線の「歴史」の最初に、「芸備鉄道」について書かれています。

1910年(明治43年)10月11日:芸備軽便鉄道発起人(佐藤正ほか7名)、鉄道院に広島ー三次間の軽便鉄道敷設許可を申請 

 

「1910年(明治43年)」、この辺りの年号をどこかで見たような気がしました。

そうだ、宍道湖畔を走る一畑電車も「1911年(明治44年)に計画され、1915年(大正4年)に開通」しています。

あるいは、東久留米を通っている西武線の前身の武蔵野鉄道も1911年に鉄道免許を得て1915年に開業したようです。

あちこちを散歩するようになって、駅や鉄道について検索すると、この年代に開業している路線をいくつか目にしていました。

 

これまでは「誰が鉄道をつくったのか」に関心もなかったのですが、それぞれの地域の鉄道の歴史を読むと、その地域のその時代の熱意のようなものが感じられるようになりました。

 

 

*才賀藤吉と電気商会*

 

芸備線についてWikipediaを検索していたら、庄原市の「電気」に目が止まりました。

1912年(大正元年)8月、才賀藤吉が事業許可を得ると、1913年(大正2年)に庄原電気を設立。庄原町に発電所(瓦斯力、 30kW)を建設し、1914年(大正年)2月に事業を開始した。

 

「才賀藤吉」 、たしか新見市でも目にしました。

才賀藤吉が1911年(明治44年)8月に事業許可を受け、同年9月に新見電気を設立。

 

才賀藤吉氏を読むと、鉄道と関係が深い人物であることを知りました。

才賀藤吉(さいがとうきち、1870年(明治3年7月11日)-1915年(大正4年)7月29日 )は明治末期から大正初期にかけて活躍した実業家、代議士。各地の電気会社や鉄道会社の経営に参画し、電気王と称された。

 

地方では電気会社(電力会社)や鉄道の設立の機運が高まっていたがノウハウに乏しく、技術者や関係省庁との折衝ができる人物を必要としていた。そういった地方に才賀が乗り込み提案した。才賀電気商会が工事を請け負い、資材の購入をし、技術者を送り込んで技術指導をする。資金が不足していれば資金の提供をする。そうすることによって電気会社(電力会社)や鉄道が地方でも実現できた。 

 

「才賀が関係した企業は100社とも150社とも言われている」と挙げられている名前をみると、中国地方だけでなく関東から全国に関係していたようです。

一畑軽便鉄道もそのひとつだったようです。

 

才賀藤吉氏が生まれた明治3年は「初めてガス灯ができ」た頃ですし、「市民が初めて電灯を見た」のが明治15年という驚異的に変化する時代だったことを思うと、その後、電気や鉄道をつくることへの地元の熱烈な思いと才賀藤吉氏の存在というのはどんな感じだったのでしょうか。

 

それから70年ほどあとの1980年代には、国鉄分割民営化の時代になっていました。

赤字路線の廃線のニュースを耳にすることもあったのですが、当時の私は鉄道の歴史には無関心でした。

 

あちこちに残る鉄道に乗ると、「こんなところにまで鉄道を通したその熱意はどこからきたのだろう」「どんな人たちがつくりあげてきたのだろう」と、日本の鉄道史の行間にまた圧倒されています。

 

江戸時代から明治時代になった頃、あの川や山の地形を読みながら鉄道を安全に敷いた、その点を考えただけでも簡単に廃線にするには惜しいほどのすごい財産なのではないかという思いが強くなっています。

 

 

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