散歩をする 329 児島湾干拓地を歩く

 2018年に児島湾干拓地を訪ねた時には、「彦崎駅から明治時代の干拓の跡を訪ねる」と書き、実際に駅の北側を流れる倉敷川の向こうに広がる干拓地を一時間ほど歩きました。

祖父の水田があった地域に似ていると感じましたが、あの頃はどこをどう歩いたらよいか見当もつかず、ただただ乗り継ぎに便利な場所を訪ねてみたという感じでした。

ですから、彦崎駅周辺を実際に歩いた記録さえ残していませんでした。

 

今回も児島湾の干拓の歴史の全体像がわからないまま出発しましたが、4年前に「藤田」という名前が干拓に深い関わりがあることを知ったので、地図で見つけた藤田地区を歩いてみたいと思いました。

 

地図を拡大すると、その地区の真ん中に何本もの水路がまとまったように見える場所がありました。その辺りを歩き、藤田神社を訪ねる。

公共交通機関では無理そうなので、児島湾干拓資料室を見学したあとタクシーを呼ぶことにしました。

 

 

*広大な干拓地はちょうど田植えの時期だった*

 

岡山市内から来るタクシーを待っている20分ほどの間、締切堤防の外側の海と児島湖を眺めました。気温は28℃ですが、快晴なので猛暑日ぐらいに感じました。

青い空と青い海、穏やかな瀬戸内海は私の海の原風景です。

 

タクシーが来ました。行き先を告げましたが、運転手さんもあまり干拓地内を走ったことはなさそうです。

昔は海岸線だった児島湖沿岸の道をしばらく走ります。

八浜に入ると、懐かしい風景が見えて来ました。2018年に両備バスに乗って児島湾締切堤防を通り、この八浜宇野港行きのバスに乗り換えましたが、乗り継ぎ時間に余裕があったのでこの辺りを歩きました。

水路があり、そのそばを静かな街が続いていました。児島湖ふれあい野鳥親水公園のベンチに座ってしばらく児島湖を眺め、快神社を訪ね、その小高い場所ぞいの街並みを歩きました。

「こころよし」神社と読むのですね。

とても落ち着いた街でしたが、町並み保存をしているようです。

 

懐かしい風景を過ぎるとすぐに第七区の干拓地に入り、広い水田地帯が広がり始めました。

「千両街道」、名前に惹かれてそこを通ってもらいましたが、正式名称は児島湾広域農道のようです。

 

ずっとまっすぐの道で、六月末でしたが両側に広がる水田は田植えが終わったばかりのように見えました。

半世紀前、祖父もこのくらいの時期に田植えをしていたのでしょうか。

点在する家は昔ながらのどっしりした日本家屋で、なんとも落ち着いた風景です。

倉敷川を越え、千両街道をまっすぐ進み、途中で左折して藤田寺のそばで降ろしてもらいました。

一本、用水路を越えて国道30号の向こうが、あの地図で見つけた何本もの用水路が集まっている場所です。

 

猛暑日のような暑さになってきたので、予定を変更して藤田神社を目指しました。

妹尾川沿いにはところどころ木陰があって、花も植えられていました。このあたりが第6区のようです。

帰宅してから改めて地図をみると、この妹尾川の上流が犬養木堂記念館のある庭瀬でした。

児島湾干拓地もあの佐賀のクリーク周辺のように大きな木や森がない印象ですが、中に入るとひんやりとする鎮守の森がありました。ここが藤田神社です。

そこからまたまっすぐな道を歩いて国道まで戻り、バスで岡山駅に戻りました。

 

*大阪の豪商「藤田伝三郎」*

 

この第6区あたりの地名は地図では「藤田」ですが、「干拓から始まる岡山平野南部地域の成り立ち」の「干拓の歴史」にこの経緯が書かれています。

 

 明治時代になると廃藩置県に伴い、家禄を奉還した旧士族たちの授産施設としての干拓による農地造成が契機となり、大阪の豪商「藤田伝三郎」によりこの地域での大規模干拓が開始されました。

 

 湾内約7,000haのうち、約5,500haを8工区に分けて順次着工し、昭和16年までの第1〜第5工区約2,970haが造成されました。昭和14年に着工した第6区(約920ha)はその後の農地改革制度に伴う藤田農場解体により一時工事を中断していましたが、昭和23年農林省がこれを引き継ぎ、昭和29年に完成しました。また第7区(約1,650ha)は昭和19年農地開発営団によって着工しましたが、昭和22年営団閉鎖に伴い農林省に引き継がれ、昭和38年に完成して現在に至っています。

 

*戦前にはほとんど干拓地ができていた*

 

2018年に訪ねた時には、JR宇野線が彦崎から早島・妹尾へと西側に弧を描いて通っているのが干拓地との境界なのだろうと見当をつけていました。ところが今回訪ねた児島湾干拓資料室にあった図と年表を見ると、この辺りは、江戸時代から明治維新までにすでに干拓されていたようです。

 

もう少し東側を見ると、彦崎駅から妹尾駅を結ぶように蛇行した水路が描かれていて、この東側が明治から大正、昭和にかけての干拓地のようです。

 

帰宅してから地図や資料を何度も見ていると、私は大きな勘違いをしていたことがわかりました。

児島湾干拓地というのは、八郎潟やそのほかの国営干拓地のように戦後の食糧増産のために締切堤防を造ってその内側に新たに干拓地を造成したのだと、子どもの頃から思っていました。

 

児島湾締切堤防の「概要」にその点が書かれています。

 児島湾干拓地の水不足、塩害、浸水などの問題を湾内に流入する笹ヶ瀬川倉敷川等の河口域を淡水湖とすることによって解決しようと1951年(昭和26年)着工、1959年(昭和34年)完成した。

ほとんどの干拓地は、戦前には出来上がっていたのでした。

 

 

千両街道の風景が、「新しく入植した」という感じではなく昔からの水田の風景のような印象だったのはそのためだったのかもしれません。

 

 

 

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