2月中旬、マスクが店頭から無くなり始めていましたが、まだこれから日本国内に感染が広がっていくのか大丈夫なのかと先が読めないままニュースを追っていた時期でしたが、休日にはまだあちこちへ出かけていました。
梅が咲き、日も長くなってきた2月中旬に水の神様を訪ねましたが、その記録がまだでした。
地図で氷川神社を探していた時に、ここは是非とも訪ねなければと思っていたのが、その名も「氷川台」です。
有楽町線の駅名で知っていたのに、まだ降り立ったことがない場所でした。
近くを石神井川が流れています。今回はその石神井川に沿って、板橋区の氷川町まで歩いてみました。
水の神様と関わりが深そうな地名がつながりました。
*石神井川左岸側を歩く*
石神井駅を出て右側へと歩き始めると、最初の信号の向こうが河岸段丘で高くなっているのがわかりました。
そこを左へ入ると、一つ目の氷川神社です。石神井川から200mほどのところにあるのですが、高台にありました。
境内には大きな木があり古くからある神社のようですが、由来が書かれたものは見つけられませんでした。境内では梅が満開になり始めていて、猫がいました。
神社を出て、河岸段丘を上るように歩き城北公園の方を目指しました。地図ではわかりにくいのですが、氷川神社に近い道路は城北公園通りよりもさらに一段高いところにあり、案外複雑な地形です。
昔ながらの魚屋さんとか、武蔵野の面影のある大きな農家の住宅があり、半世紀前の風景の記憶が感じられる場所です。
東京少年鑑別所があり、道路をはさんで広がる城北中央公園は、石神井川の河岸段丘を利用した傾斜地になっていました。東京少年鑑別所が開設されたのは1949年(昭和24)とありますが、その当時はこの辺りはまだ農地と雑木林しか無くて、石神井川がしばしば氾濫していた頃でしょうか。
公園内を抜けて、石神井川左岸の遊歩道に沿って歩きました。公園の対岸はあまり高い場所はなく浸水しやすかったのでしょうか、貯水施設の工事中でした。
しばらく歩くと今度は右岸側の方が少し小高い場所になり、こちら側には雑木林が残された児童公園が広がっていました。その下は、災害時のための貯水タンクがあるそうです。
半世紀ほど前にはドブ川で、浸水の多かった石神井川が、こんなにのどかに蘇っているのかとちょっと感無量です。
*板橋区内の石神井川と氷川神社*
公園から200mほど歩くと上り坂になり、その上に板橋区東新町の氷川神社がありました。
静かな住宅地に、やはり大きな木が鬱蒼とした境内がありました。鮮やかな紅梅が咲いていて、ここにも猫がいました。挨拶をして神社をあとにしました。
昔の参道だったのでしょうか、小さな商店街を抜けて石神井川の遊歩道に戻りました。
残念ながら環七のところでその遊歩道は寸断されていて、歩行者はちょっと迂回を余儀無くされました。
しばらくはコンクリートで護岸された石神井川に沿って、両岸とも平地の比較的まっすぐな遊歩道を歩きました。
ずっと歩いたのでちょっと疲れたところ、上板橋第一中学校の校庭のそばに遊歩道の椅子がありひと休み。放課後の校庭で、賑やかにサッカーをしている声が聞こえました。
あの頃は、まさか2週間後に休校になるなんて誰も思っていない時期でした。
一息ついて、今度は石神井側の右岸側の遊歩道を歩きました。東武東上線の線路下をくぐると、桜の並木が遊歩道沿いにあります。桜はまだ固い蕾でしたが、沈丁花の香りが漂っています。
意匠を凝らした橋がいくつかあって、その橋の通りごとに商店街が伸びていました。
あとで地図で見ると、環七と中山道の交差点に近い場所でした。きっと、昔から賑やかに栄えていたのかもしれませんね。
しばらく両岸ともに平地でしたが、次第に傾斜が出てきて、最後の目的地の氷川町の氷川神社が近づいてきました。
地図では手前に水色の部分が描かれているのですが、おそらく氷川神社の建つ少し高い場所から小さな谷津のように湧き水が出て、石神井川に流れていたのだろうと思える場所です。
現在は釣り堀があり、公園として区が管理しているようでした。
国道17号線の大きな道路の上は首都高速が通り、地下は都営三田線が通って交通量の多い場所です。。
石神井川の流れが、この高台に挟まれた部分にぶつかる様子を想像すると、昔は中山道のこの箇所を渡るのは大変だったのかもしれないと想像しながら、池袋までバスに乗って戻りました。
左岸の環七沿いにももうひとつ氷川神社があるのですが、今回は時間が足りなかったのでまた次回ということになりました。
「水の神様を訪ねる」まとめはこちら。