記憶についてのあれこれ 160 伊豆大島を訪ねた

伊豆大島といえば、7月にも「伊豆大島〜なぜ伊豆大島といえば"アンコ椿"!?〜」(ブラタモリ#164)が放送されました。

ブラタモリは必ず録画するのですが、なんとなくすぐに観るのはもったいなくて、いつも時間が経ってから観るという変な癖が私にはあります。「好きな食べ物は最後にとっておく」に似ているかもしれませんね。

 

そういうわけで7月の録画を観たのは、2ヶ月ほど経ってからでした。

私が伊豆大島を訪ねたのは、たしか1993年だったと思います。時々懐かしく思い出す風景を、番組の中であちこちに観ることができました。

楽しく観ながらも、気合が入ってたくさんメモをとっていました。

東京都で一番大きな火山

三原山以外に80の火口がある

波浮港は火口湖で、1703年の地震津波で海とつながった

風待ち港として盛えた

「ハマンカー」「浜の川」

火山の島では、雨水は川になって流れるより下にしみ込んでしまう

大島には川がない

井戸は真水、海水が下に、真水が上に、海水の方が重い

野増地区、古い山道、水を取るために作られた道、貯水小屋があり、水が滲み出ている

20kgの桶を頭に乗せて運んだ方が狭い道を通りやすい

椿並木、防風林、風速10m以上が年間100日以上ある

ワックス効果、葉は潮から守る、火山灰から守られる

火山灰の土に適している、300万本

 

伊豆大島を訪ねた記憶が蘇る*

 

「外人が村にやってくる」ということに書いたように、80年代から90年代、私が暮らした東南アジアのある地域では内戦状態で、現地の状況を海外に伝える手段もないほど混乱していました。

私が知り合った現地NGOのリーダーを日本に招いて、こんな大変な状況がありますと小さな講演会のようなことをしていた時に、聴きにきて下さった方が「伊豆大島に泊まりにいらっしゃい」と招待してくださったのでした。

 

細かいことは忘れてしまったのですが、大島に一軒家をお持ちで、そこに何日間か泊まらせてくださいました。三原山や観光地にも連れていって下さったのですが、基本、静かに過ごす時間を作ってくださいました。

おそらく、内戦状態でいつ殺されるかわからない状況で活動していた私の友人に、ゆっくりと休息の時間を下さったのだろうと思います。

今思い返すと、その方がどうしてそんな心遣いをしてくださるのか、どんな生き方をされてこられたのかという相手の方の人生への関心よりは、「日本人が知らない大変な世界の状況」を伝えることに必死になっていました。

 

発信するという言葉が苦手になったのは、そうした正義感に満ちて行動している時に、目の前にいる人それぞれもまた、かけがえのない時間の中で生きていることが見えなくなってしまうこともあるかもしれません。

もし、時間を取り戻せるのであれば、どうしてその方が関心を示して下さったのかを知りたいものです。

 

その家には五右衛門風呂があり、私は祖父の家で入った懐かしさ、そして暑い国では手桶で水をかけて体を洗うのが一般的だったので、友人は「鍋で料理されているみたい」と初めて観る五右衛門風呂に大興奮でした。

周囲の庭から集めてくる松の葉を燃やして焚いていたことが、印象に残っています。

なんとも良い香りでした。

 

人の家なのに、すっかりリラックスして過ごした時間でした。

 

ブラタモリの「伊豆大島の火山愛」を観て、改めて私が訪れたのは噴火からまだ数年後だったとつながったのでした。

全島避難とか、火山のある島の暮らしとか、今ならたくさん聞いてみたい話なのに、当時の私は目の前の方々の生活にあまりに無関心だったのだと、またまた心が疼いてきたのでした。

いやはや、記憶を思い出すというのは赤面することが増えますね。

 

散歩の計画ノートに、いつか訪ねたい計画が増えそうです。

 

 

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