気持ちの問題 7 <「発信する」という言葉が苦手>

いつ頃からでしょうか、「情報を発信していきたいと思います」という表現を耳にするようになったのは。
インターネットで個人が情報を「発信する」ことが容易になったあたりでしょうか。


Weblio類語辞典では「人に情報を伝えること」という意義素があり、以下のような類語が紹介されています。

伝達する・伝える 言伝える 言い送る 申し送る 申し送りする 知らせる

こう書き並べると、特に「発信する」という言葉自体には何の気持ちも起きないのですが、テレビなどで「情報を発信していきたいと思います」と誰かが言っているのを見ると、何とも言えない拒否感が私の心の中に沸き上がってくるのです。


言葉には罪はないのですけれど、何ででしょうね。


<「正義感」がにじみ出ることへの気恥ずかしさ>


たぶん、正義感がにじみ出ていることを感じ取って気恥ずかしくなる、そんなところかもしれません。
あるいは独善性とか。


「自分がやっていることは良いことである」「自分がやっていることを他の人にも広めたい」そういう気持ちを表現するには便利な一言なのではないでしょうか。


ですから「発信する」という言葉で語られたとたんに、急に陳腐な言動に見えてしまうのです。


それは、こちらの記事の<正義感と理想>や<理想と現実>あたりで書いた自分自身の過去に重なり合って、気恥ずかしさを感じるのだろうと思います。


まあ、それが若さ故の・・・だとは思うのですが。


<「善意と正義感」への躊躇>


1980年代初め頃から、当時はまだ珍しい存在だった海外援助団体に関わっていました。
今思い出すと、当時の日本の社会はまだまだ海外への関心は薄く、「何で日本人が海外に援助にでかけるのか」というあたりから社会の理解を積んでいかなければいけない時代でした。


最近は、国内外で大災害があるとすぐに緊急援助隊が派遣されるようになり、まさに隔世の感ありですね。


あの頃は、まだ国連機関でも通信手段がテレックスだったインターネットの前の時代でしたから、弱小の海外援助団体が「情報を発信」するには印刷したニュースレターを郵送で送ることぐらいしかありません。


会員を集めるためには知名度を高める必要がありますし、講演会を知らせて参加者を募るためには、新聞に掲載されることが一番の効果がありました。


こうした市民運動に関心を持つマスメディアの人たちを巻き込み、知名度を高める。
それも資金集めと事業継続には必要なことだとわかるのですが、心のどこかでは「私たちがやっていることは本当に世の中に必要なことなのだろうか」という躊躇がありました。


ニセ科学の議論の中で、「善意と正義感」という言葉を聞いた時に、あの躊躇した気持ちはそのあたりかもしれないと思ったのでした。


<「発信する」側の優位性と限界>


1990年代に入ると、海外医療援助への熱は冷めて開発と人権の問題へと私の関心は移りました。


私がホームステイさせてもらっていた東南アジアのある地域の現状は、「日本に伝えなければ」と私を駆り立てました。そして知人を通じて、松井やよりさんが現地に足を運んで新聞記事にしてくださったことはこちらの記事に書きました。


日本のマスメディアがその地域に関心を持っていることだけでも、住民を強制排除して大規模開発が押し進められることを少しでも抑制できるのではないかと、報道の持つ力を頼りました。
「情報を発信することで何かを変えられるのではないか」という私の思いは、やはり「善意と正義感」だったなと思い返しています。


おそらく松井やよりさんは、ご自身が書く記事がどれくらい社会に影響をするのかしないのかをわかった上であえて現地に来てくださったのだろうと、今、当時の松井やよりさんと同じ世代になってわかるような気がします。


「拙速にならない」
これもニセ科学の議論で耳にして大いにドキッとした言葉でしたし、あの「情報を伝えなければ」と駆り立てられていた時期の自分にまた赤面するのです。


「情報を発信したいと思います」と言う方々は、本当に一生懸命でいい人だろうなと思いつつ、なんだか自分の気恥ずかしい過去が思い出されるのでこの言葉が苦手なのかもしれません。
ええ、気持ちの問題なのですけれどね。





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