新潟市の「潟のデジタル博物館」に鳥屋野潟(とやのがた)周辺の昔の姿が書かれていました。
潟の産物や賑わい
排水機場の稼働(昭和20年代以降)以前、鳥屋野潟は栗の木川と信濃川を通じて日本海とつながっていました。そのため、かつてはコイ・フナなどの純淡水魚のほか、ワカサギやマハゼ、スズキやサケなどの回遊魚や海産魚も漁獲されていました。現在でも、海産のメナダが漁獲されていますが、これは信濃川を遡上し、かんがい用などの揚水機を通じて鳥屋野潟に流入し、成長したものと考えられます。
近年では、漁業従事者は少なくなっていましたが、このボラ・メナダを含め、コイやフナなど鳥屋野潟の魚を食する催しが開かれ、周辺のレストランが鳥屋野潟の魚をメニューとして提供する試みが行われるなど、潟の魚を味わえる機会が増えてきています。
また、市街地に近接しながらも、広大な水面を要する鳥屋野潟の魅力ある環境を発信するため、「とやの潟環境舟運」や「とやの物語」などのイベントが開催されています。
鳥屋野潟の動植物
鳥類は180種以上が確認されており、冬には4,000羽を超えるハクチョウが飛来します。水域ではアサザ、コウホネ、ヒシなどの浮葉植物がみられます。重要種として新潟県固有種のエチゴモグラの生息も確認されています。
日々、さまざまな事象が観察され、保全しながら人も安全に住めるようにという意識が浸透したのもここ半世紀ほどの驚異的な変化かもしれないと思いながら読みました。
*「どぶね農業」の実際*
水に浸かりながらの潟の農業にも他の見方があることが書かれていました。
鳥屋野潟のくらし文化
昭和20(1945)年代に大規模な排水機場が設置されるまでは、潟周辺の農耕は、腰まで水に浸かる低湿地の湛水田の中で作業が行われていました。潟底のベト(埃土・あいど)は、多種の有機質(植物腐植体)を含み、肥料効果が高かったため、田んぼに入れ肥料としました。また、ベトは低湿地の干拓土やアゼ作りにも使われていました。
これもまた長い間の先人の観察と知恵ですね。
「地図にない湖と"どぶね農業"」には、その具体的な農作業の様子が書かれています。
多雨と豊な土壌に恵まれた日本では、一年に何回かの収穫が可能である。
その日本に、"三年一作”といわれた土地があった。
新潟平野である。
泥のような深田では、もとより生産力は弱い。
加えて、その少ない実りがすべて、2、3年おきに生じる洪水によって流されてしまうのである。
だれも予測し得ぬ天候、あくなき害虫や雑草との闘い。
全身泥まみれの農作業や、肌も凍てつく冬場の客土。
そして、ひとたび堤が切れれば、それら一切は跡片もなく流出。
濁流は家屋を襲い、人畜を殺傷し、何日も水は引かず、新潟平野は一大泥海と化した。
「おやおや おやげなや(「むごたらしい」の意)曽川が切れた 抱いて寝た子も流された」(曽川切れの口承)
「・・・茄子や豆などいずれも腐れ、胡瓜[きゅうり]・南瓜[かぼちゃ]は蔓[つる]皆枯れた、
瓜も西瓜[すいか]も食うことできず、稲も枯れては米価は高く、味噌を損じて塩のみなめる。
簞笥[たんす]・長持流れてしまい、鍋や釜など皆打ち沈み、
臼[うす]や桶[おけ]類残らず失せて、ムシロ・畳もぬれたる故に、
夜着や布団も臭さは腐し、井戸はつぶれて飲む水乏し・・・」
(「横田切口説」より)
下流では多くの村が土手によって守られている。
その土手が今にも壊れそうなほど水が溢れた場合、どうするか。
対岸の村の土手が決壊すれば、とりあえず川の水は一挙に引く。
大雨の中、夜陰にまぎれて対岸の土手を壊しに向かう決死隊すら結成されたという。
遠い昔の話のように思えてしまったのですが、私が生まれた頃の「新潟平野」はこんな感じだったようです。
それでも「くらし」よりは「生活」の表現の方が合うと感じるのは、どこかにその時代の現実の記憶がうっすらとあるからかもしれませんね。
「生活のあれこれ」まとめはこちら。