お正月早々、霊園の話が続きます。
1960年代70年代頃の小平霊園と変わらない懐かしい風景でしたが、現代風に変化した場所もありました。
私の記憶の中では、きっちりと区画が決まった墓地だけでしたが、入口の近くに合葬式墓地が造られ、また新青梅街道沿いには芝生に同じデザインの小さな墓石が並んだだけの場所もありました。コンパクトな区画です。
小平霊園の入り口に説明がありました。
昭和36〜44年 芝生墓地開設
昭和60年10月 霊園の管理が(財)東京都公園協会に委託される
昭和63年9月 現在の管理事務所竣工
平成3~5年 壁型墓地開設
平成10年6月 合葬式墓地1号墓開設
平成20年5月 合葬式墓地2号墓開設
平成24年4月 樹林型合葬埋蔵施設開設
平成26年4月 樹林型合葬埋蔵施設開設
および小型芝生埋蔵施設開設
*「小平霊園のあらまし」*
「小平霊園のあらまし」という説明がありました。
明治7年、時の明治政府の「墓地取扱規則」制定を機に、東京府は市民のための公共墓地として青山、谷中、染井、雑司ヶ谷等の墓地を開設しました。
しかし、その後の東京の急激な市街化の進展と人口増加の為、大正初期には墓地不足が深刻化し、東京市は郊外の東方、西方、北方の3か所に公園墓地の建設を計画しました。この計画に基づき、大正12年には北方面の多磨霊園(府中市)、昭和10年には東方面の八柱霊園(松戸市)を開設、昭和19年に西方面の小平霊園建設を都市計画決定し、昭和23年5月に開園しました。
小平霊園は、新宿から西へ23kmの地点、西武新宿線と新青梅街道にはさまれた住宅地のなかに建設された公園墓地で、総面積は65万3千㎡、そのうち約半分が墓所、残りの半分は樹林や草地、園路となっています。中央部の36区画は一般墓地、東側の5区画は近代的な明るい雰囲気の芝生墓地、正門を入って右側の樹林地の中には合葬式墓地、小型芝生墓地、北側の新青梅街道沿いには、壁型墓地があります。また、管理事務所近く、中央参道を左に入った所に樹林・樹木墓地が設置されています。
西武新宿線の小平駅北口から線路沿いに、ケヤキ並木の表参道を300mほど歩くと正門に着き、門を入って左側の林の中に管理事務所があります。正門からは幅員約50mの中央参道が北へ600mほど続き、両側に高く枝を広げるアカマツや緑鮮やかな芝生地、秋には彼岸花などが目をひきます。園内の区画の多くは、ケヤキ、サクラ、マツなどの並木のある園路によって100mごとに四方を区切られ、区画ごとに特徴のある雰囲気を醸し出しています。
春と秋のお彼岸やお盆の時期には一日に数万人の墓参者が訪れます。墓参だけでなく朝晩や休日などには、散歩を楽しむ人やこどもたちなども多く見受けられ、地域に溶け込んだ霊園となっています。
なお、本園は周辺市の広域避難場所にも指定されています。
幼い頃に墓地内を散策したときには、圧倒されるような立派なお墓と反対に、小さなお墓があった記憶がありました。
死んでからも墓地の大きさの差がついてまわることに、何か無情を子ども心に感じたのですが、今回久しぶりに歩いてみると、小平霊園の昔からある一般区画は大半が同じ面積でした。もっと広いお墓があったような気がしたのですが、区画の広さは平等で、墓石などで立派さの差を出していたようです。
これもまた、平等を求める市民の気持ちが明治時代ごろから少しずつ社会に根づき、戦後に実現したのだろうかと想像したのですが、どうでしょうか。
明治生まれの祖父母は、ここに墓地を得たことにホッとしたのかもしれません。
ところが、30年ぐらいで息子(父)とともにお墓も引越し、さらに10年ほど前にはお寺の中に造られた小さな室内墓地に引っ越しました。お墓の維持のためにこどもたちが困らないように、と私の母が思ったようです。
墓地には悠久の時が流れているイメージでしたが、案外、移ろいは激しいものですね。
お墓に対しての考え方も、驚異的に変化した半世紀と言えるでしょうか。
私はといえば、都立墓地にも樹木葬があることに心が弾みました。
祖父母が選んだこの小平霊園での樹木葬もいいかなと、思い始めています。
祖父母の世代には樹木葬なんて考えられなかったことでしょうね。
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