行間を読む 101 千葉県にある都立霊園

都立霊園である八柱霊園が、なぜ千葉県に造られ、そのまま現在も都立霊園として続いている歴史はどんなことだったのだろうと気になり続けています。

 

松飛台駅の名前の由来から、旧陸軍の跡地を墓地にしたのかと思ったのですが、東京都立八柱霊園を読むと、戦前の「1935年(昭和10年)に、東京市が東方墓地として開設した」とあります。

 

八柱(やはしら)村の歴史に、1889年(明治22年)に合併してできた時代のことが少し書かれていました。

当時の八柱村はいわゆる陸の孤島であり、米やネギなどを栽培する純粋な農村地域であった。明治33年(1900年)八柱村大橋(現在二十世紀が丘に属する)の松戸覚之助が二十世紀梨の生育に成功すると、この地域の梨栽培が注目されるようになり、高塚新田などを中心に村内で広く栽培されるようになった。昭和10年(1935年)、東京市が田中新田の土地73町3反余りに墓地を設置した。後の八柱霊園である。

 

これが「誘導路があった西が八柱霊園の一部にあたる」という意味だったのでしょうか。

 

ところで「73町」ってどれくらいの広さかと検索すると「0.7㎢」で、 実際にどれくらいの面積なのかWikipediaの「面積の比較」を参考にすると、新宿御苑が0.583㎢とあるのでそれより少し広いくらいでしょうか。

現在の広さが「105ヘクタール(約1平方キロメートル)」なので、旧陸軍の土地を墓地にしたというよりも、もともと墓地として計画されたのでしょうか。

 

*「陸の孤島」に都立霊園を計画したのは?*

 

私は北総線を利用して八柱霊園を訪ねましたが、それ以外には新京成線、JR武蔵野線に囲まれた場所です。

 

新京成線が開通したのが1955年(昭和30)、JR武蔵野線の府中本町〜新松戸駅が開通したのが1973年(昭和48)、そして北総線は1991年(平成3)ですから、1935年に開園したあと20年間ぐらいは鉄道の交通手段がない場所だったようです。

どうやって、都内からお墓参りに行ったのでしょう。

 

戦前にはすでに武蔵野線の計画もあったらしいので、そうした鉄道網の充足を見越しての開園だったのでしょうか。

 

ところで、江戸川を渡ると一段と小高い場所が見えるのですが、松戸市の「地理」を読んで、それが下総台地であることを知りました。

東部地域は下総台地(海抜20〜30メートル)の西端となっていて、現在では概ね住宅地が広がっているが、1960年代以前は、山林や果樹園、畑が多く見られた。標高は市域のほぼ中央に位置する常盤平駅周辺が最も高く、ここを境にして市内の河川は西に向かい東京湾へ流れる江戸川水系と、東に向かい太平洋へ注ぎ込む東の手賀沼利根川水系に分かれている。 

 

下総台地にこんな説明がありました。

辺縁部は侵食により樹枝状の無数の谷が切れ込んでおり。谷津田が拓かれた。しかし、台地の奥の部分は生活用水の入手が困難なことから集落はあまり形成されずに原野が広がっており、江戸時代には「小金牧」や「佐倉牧」などといわれる江戸幕府の馬の放牧地が広がっていた。 

 

車窓から見える複雑な地形も、八柱霊園の北西にある谷津のような部分も、この「樹枝状の谷」のひとつだったのかもしれません。

 

下総台地、あの成田空港開港直後の周辺の風景を思い出しました。

そうそう、あの辺りも「御料牧場」でした。

以前から江戸との直接のつながりがあったことも、都立霊園の飛び地の歴史と何か関係があるのでしょうか。

 

 

都立霊園の使用者募集を読むと、一般区画は「都内に5年以上継続して居住していること」が条件なのですが、この八柱霊園には「都内または千葉県松戸市に5年以上継続して居住していること」とありました。樹木葬になると、それぞれ「3年以上」だそうです。

 

今年は、下総台地をもっと歩いてみようと思いました。

 

 

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