水のあれこれ 168 明治用水取水口と水源町

三河豊田駅の真ん前にあるトヨタ自動車工場隣の長い道を歩くと、本社前あたりから下り坂になります。

地図と航空写真ではわからなかったのですが、トヨタ本社は矢作川右岸の高台にあり、そこからかなり下がったところに明治用水の取水口と取水堰があるようです。

トヨタ会館の道を隔てたところが少し崖のようになっていて、昔はその高台からの小さな川の始まりだったのだろうと思う場所に水路がありました。工場で使用するのでしょうか、小規模の浄水施設がありました。

 

環状線という道路から川の方向へと曲がると、わずか150mほどの距離ですが、少し膝に力を入れて歩いた方が良いような坂道になり、住宅街が続いています。

その先の右手に大きな橋が見え、あとで調べたら伊勢湾岸自動車道だそうです。

私の頭の中の地図は東名・名神高速道路で止まっているのですが、歴史は長いようです。

 

左手に取水堰の一部が見えてきました。

水源公園は高い場所から斜面に沿って、矢作川沿いにあります。

公園の前に取水堰がありました。対岸まで堰の上を通行できるようになっているようですが、残念ながら工事中でした。

 

川のそばの遊歩道を少し下流側へ歩くと、分水路がよく見える場所があります。

堰の向こう側から取水された水が、トンネルをくぐったところでは3本の水路になって流れていました。

 

この水が、この日の午前中に歩いた碧海台地を潤していると思うと感無量でした。

 

 

明治用水「都築弥厚の計画」*

 

明治用水の歴史を読み返しました。

碧海台地に矢作川の水を引いて新田開発を行う計画は、江戸時代文化・文政期に碧海郡泉村(現安城市和泉町)の豪農である都築弥厚(1765年~1833年)の発案である。都築は数学者の石川喜平とともに、1822年に用水路の測量に着手し、農民の抵抗に遭いながらも、1826年に測量を完了させた。翌年には開墾計画を『三河国碧海郡新開一件願書』にまとめ、幕府勘定奉行に提出した。願書によると、碧海台地が原野のままである理由は用水がないためであるとし、越戸村(現豊田市平戸橋町)で矢作川の水を分水し、台地上に水路を建設するといった計画であった。1833年には幕府は都築の計画を許可したが、都築は同年に病没した。

「都築弥厚の計画」

 

「1883年には幕府は」の箇所は「明治政府」の誤植だと思われますが、いずれにしても江戸時代から明治にかけて、一個人が計画をたて、測量をしたことに改めて驚きます。

 

取水堰の上流側には、堰と取水口のあたりを眺められるようにベンチがありました。

しばらくそこに座ってみました。

都築弥厚はどうやってこの場所から水を引くことを見出したのでしょうか、のちに「水源町」とつけられるような場所に。

 

あの玉川上水福生のあたりから武蔵野台地へと水の流れを引き上げたように、江戸時代からの土木事業はなんとすごい現代への遺産なのでしょうか。

 

明治用水資料館では、用水路を引くことで下流の農民からは浸水被害が出るのではないかと反発があったことが書かれていました。

たしかに、下流では下流の洪水との闘いがあります。

 

歴史に「もし」はないのですが、この計画がなかったら今頃、あの安城のあたりはどんな風景だったのでしょうか。

 

 

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