行間を読む 130 行間に歴史の葛藤が感じられない文章

2015年に水を制御するで、長良川河口堰についてWikipediaにリンクして記事を書きました。

 

その時の長良川河口堰は2010年10月18日の版で、以下の文章から始まっています。

長良川河口堰(ながらがわかこうぜき)は、三重県長良川の河口部に治水と利水を目的に作られた堰(河口堰)。

 

その建設に当たり、利水や治水の観点から建設を望む声がある一方、長良川の生態系や漁業などへの悪影響などが懸念され反対運動が起こり、建設の是非をめぐる論争が発生した。この論争は、単なる「開発」か「環境」かという論点を越えて誰がこの問題の「当事者」足りうるのかという、税金を使う公共事業のあり方、河川管理や産業振興、環境保護のあり方についての論点を提起することにもなった。

 

 

久しぶりにWikipedia長良川河口堰を開いてみると、「概要」が追加されて以下のように書かれていました。

元は工業用水を溜めるために計画されたが、計画が30年以上紆余曲折するうちに重工業がさして水を必要としなくなったため、洪水防止に名目を変更して建設が進められた。

 

2015年に「水を制御する」を書いたときには、まだ伊勢湾台風がどの辺りにどれだけの被害を与えたのかまだよくわかっていなくて、また私が生まれたころに日本国内で「死ぬまでに真水を飲みたい」と思うほど水を得られない地域があるとは知りませんでした。この2010年版のWikipediaを読んで、「治水と利水」対「生態系への影響や漁業補償」の問題なのだろうかくらいにしか理解できていませんでした。

 

「アクアプラザながら」には「木曽川水系連絡導水路事業の概要 〜渇水に強い木曽川水系を目指して〜」というパネルがあり、以下のような説明がありました。

 木曽川水系では、近年の少雨傾向により平成になって以降ほぼ毎年のように取水制限が行われるなど、渇水被害が頻発し、近年での最大の渇水であった平成6年には、木曽川長良川の河口部などでのシジミの斃死(へいし)魚の大量死、水質の悪化などの被害が確認されました。また、知多半島等では最長19時間の断水が生じるなど、愛知県、岐阜県三重県名古屋市等の東海地方の市民生活に大きな影響を与えました。

 このような渇水に対応するために、揖斐川上流に平成20年3月に完成した徳山ダムで貯留している水を、木曽川長良川に導水するために、木曽川水系連絡導水路を建設します。

 

むしろ、渇水による漁業への影響への対策という意味もあったようです。

 

木曽川長良川揖斐川が3本の川になった時代*

 

たしかに戦後の工業国への変化とか経済成長での生活の変化と水の関係を考えると、冒頭の2010年版にはその当時の社会の葛藤が書かれてはいるのですが、もう少し時代を遡ると、また違った視点もあるかもしれません。

 

「江戸時代の長良川」「明治時代の長良川」という長良川河口堰の対岸に見える揖斐川との間の堤についてのパネルもありました。

江戸時代の長良川

今の長良川の河口のあたりは、古くは長良川木曽川揖斐川が網状に流れて、洪水のたびに川の形を変えるといったありさまでした。水害に悩まされた人々は、家や田畑を洪水から守るために、その地域全体を堤防で取り込んだ「輪中」で暮らしていました。

江戸時代中期の宝暦4年(1754年)、薩摩藩(現在の鹿児島県)は木曽三川を3本のかわに分ける治水工事(いわゆる「宝暦治水」)を江戸幕府に命じられ、油島(あぶらじま)の締め切り工事などを行いました。

 

宝暦治水を行なった平田靱負(ひらたゆきえ)です

薩摩藩の人びとが約1,000人、それに地元の人々を加えた約2,000人が参加した「宝暦治水」。

この大工事のリーダーをつとめたのが、薩摩藩の家老である私、平田靱負です。

工事はたいへん困難なもので、多くの犠牲者を出しましたが、翌年の1755年になんとか完成しました。

 

完成はしたものの、「莫大な費用と数多くの藩士がなくなったことの責任を取り」平田靱負は自害したのでした。

1938年(昭和13年)にその平田靱負薩摩藩士84名を祀ったのが、2019年に木曽三川を訪ねたのに、バス停を間違えてたどり着けななかった、あの治水神社です。

あれは本当に痛恨のミスでしたね。

 

 

そしてさらに明治に改修が行われました。

明治時代の長良川

 

江戸時代の宝暦治水では、木曽三川を今のように完全に分けることができませんでした。

明治政府は、木曽三川を3本の川に完全に分けるため、当時の国の予算の約12%というたいへん多くの予算を使って、河川改修工事を行いました。

45年(1887〜1912年)にかけて行われました。これにより、木曽三川が完全に3本の川に分けられ、木曽三川下流部での洪水被害はとても少なくなりました。

 

 

歴史にもしはないけれど、もし木曽三川が分流されていなかったら、今頃は長良川河口堰どころかこの辺りは人がなかなか住めない場所のままだったかもしれませんね。

 

木曽三川」、簡単な言葉ですが、知ろうとすればするほど知らない歴史が出てくる言葉ですね。

Wikipediaの現在版の「元は工業用水を溜めるために計画されたが」で始まる説明を読むと、そうした歴史が割愛されてしまっています。

語られなかった大事な記憶は、雄弁な正義に往々にして負けやすいと感じたのでした。

 

 

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