水のあれこれ 176 深大寺用水

深大寺用水と検索すると、すぐに歴史がわかると思ったのですが、頼みの綱のWikipediaもありませんでした。

でも、多くの人がこの深大寺用水跡を探しながら歩いている記録があります。

 

調布市の「キッズページ」の「明治時代」にこんなことが書かれていました。

調布町と神代村が 誕生

 

明治維新の後、調布を含む周辺の地域は品川県、入間県、神奈川県になるなど目まぐるしく変わり、東京府にぞくするようになったのは、明治26(1893)年のことでした。

この間、明治22(1889)年には、調布町(まち)と神代村が生まれました。

明治8(1875)年には深大寺村名主、富沢松之助が自分の財産を使って深大寺用水を完成させました。砂川用水から梶野新田までの14キロメートルに及ぶ水路の改修と市内13キロメートル掘り広げたこの用水は、昭和27(1952)年ごろまで大切に利用されました。

 

「砂川用水」で検索すると、砂川分水の「流域・ルート」に、深大寺用水と思われる説明がありました。

1653年(承応3年)の開削当初の取水口は現在の稲荷橋上手(東京都立川市一番町4丁目3番地)にあったが、1871年(明治3年)に一番町2丁目の松中橋上手に移動した。天王橋より五日市街道に沿う農家の庭先を延々と流下し関野橋より南下し水路の上を横断し、小金井の畑地を通り中央本線を境変電所付近で横断し、小金井市三鷹市を通り、三鷹市野崎より調布市深大寺、金子の水田の灌漑用水として引水される

 

玉川上水の分水路として開削された砂川分水の説明を読むと、一部はあの武蔵境の遊歩道のあたりと重なるように読めますが、現代の地図でその跡をたどりたくてもほとんどわかりませんね。

 

また調布市社会福祉協議会のわいわいサロン、「深大寺用水はなぜ開削されたのか」(2011年9月24日)には、以下のまとめが書かれていました。

安政2年の江戸直下大地震深大寺村野ケ谷の湧水が崩壊、野ケ谷たんぼが全滅したが、徳川幕府は壊滅した水田から年貢を取り立てることもなかったので、農民たちは稲作を放置していました。地震から13年後、明治政府の品川県知事古賀一平は、新鋭「社倉取建令」を発し、耕作面積に応じて水田からは米を、畑地からは金を、さらに過去に水田であったという理由で休耕田からも米を納めるように命じた。明治4年、新鋭に苦悶した深大寺村の名主富沢松之助と村民たちは、金子村、佐須村、大町村の協力を得て、水田を復活させ税を収めるべく、自費で約200mの隧道を含む全長13kmの用水路を、約20日間で完成させました。

 

 

安政2年(1855年)の大地震湧水地帯であったこのあたりの地域の生活を一変させ、その土地にも課税されたことがきっかけだったのですね。

 

「自分の財産を使って深大寺用水を完成させた」という一文の意味も、財力、権力、社会的地位の保持には責任が伴うともまた違う過酷な状況だったのかもしれませんね。

20日間で水路を完成させた。

どんな時代だったのでしょう。

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら