散歩をする 297 武蔵境の遊歩道を歩く

利根運河を歩いてじきに、東京都にまん延防止措置が4月12日から適用されることが伝えられました。

(1)飲食店の営業時間を午後9時までから8時に短縮要請 (2)マスク会食やアクリル板設置の徹底 (3)都県境をまたぐ移動の自粛要請

 

「都県境をまたぐ移動の自粛」、これで4月中旬以降に計画していた2泊3日の遠出は中止が確定になりました。

基本ひとりで行動し食事もひとりの散歩なので、第三波の時は今ならむしろ人が少ないという時期に遠出をしました。ところが都内では3月初旬から中旬に少し新規感染者数が減ったものの、それ以降じわじわと増加していましたし、20代30代の重症化が伝えられているので慎重にした方がよさそうと思いました。

 

一年前の初めての緊急事態宣言の時には、本当に都心の駅はひっそりしていたのですが、今年はまったく様相が異なりました。

3月から4月にかけて、駅周辺では、大学生ぐらいの年代の人たちが数人ぐらいでおしゃべりをして行動している場面が急に増えました。

電車の中でもにぎやかで密接になりながら、しかもウレタンマスクのまま大きな声で喋っています。

新学期になり、新しい友人や恋人などで盛り上がるのでしょうね。

ああ、本当にこういう時期は人生で大事だけど、やはり申し訳ないけれど若い人たちの行動を変えることは大事なのだなと感じました。もちろん、世代それぞれの問題があるのですけれど。

 

最初は「人流」という聞きなれない用語に戸惑ったのですが、やはりあまり人混みを作らないようがよさそうと思っているうちに、東京の感染者数も500を越え、700にまで達するようになりました。

そしてテレビでは、「飲み足りないから」と路上飲みをする人の姿が映るようになりました。通勤で通っている場所が夜8時過ぎにあんな状態になるなんて、ゴールデンウィーク明けが怖そうと思った通りになってしまいました。

 

*都県境を越えない散歩を計画する*

 

ここは逆手にとって、「絶対に都県境を越えない散歩の計画」を作ってみようと思いました。

近所でも歩いていない道がたくさんありますからね。

 

地図をじっくりと見ていたら、武蔵境駅の北側に「人」の字のように遊歩道らしき場所があるのが目に入りました。

30年前に通勤で利用していた中央線ですが、そういえばまだ武蔵境駅周辺を歩いたことがありません。

この不思議な「人」型の遊歩道はどんな場所か、歩いてみようと決まりました。

 

4月中旬、武蔵境に向かいました。駅に降りると、通路に「街の変遷」「街と駅の変遷」などの写真と年表がありました。

武蔵境駅は、中央線で最も古い駅のひとつです。明治22年(1898年)、境停車場(駅)が開設され、駅とともに街が発展してきました。

平成11年に始まったJR中央線三鷹〜立川間および西武多摩川線武蔵境駅周辺の連続立体交差事業が完成し、今春それに伴う武蔵境駅周辺環境整備事業も完成しました。

踏切がなくなったことにより、交通渋滞は解消され、安全性・利便性が著しく向上し、鉄道によって隔てられていた街は一体化し、市の西側玄関口にふさわしい「うるおい・ふれあい・にぎわい」のある美しい街(まち)へと生まれ変わりました。 

 

私が通過していた1990年代初頭の写真も、すっかりセピア色でした。

 

まず南口へと出ると、そこには新緑が美しい街路樹があり、その日は初夏のような陽気でしたが歩くのに心地よい場所でした。

 

 

地図で境内に池が描かれていた杵葉大社を、最初に訪ねてみました。鬱蒼とした森のなかに小さな池がありました。周辺の家も「武蔵野」の面影を感じる住宅街です。

そこからまっすぐ、あの車窓から見える日本獣医生命科学大学の横を歩き、高架をくぐって北側へ出ました。

 

そこから南へ少し歩くと「人」の左側の部分が始まります。

地図ではわからない高低差がその道の両側にあり、しばらく行くと森の中に水の流れていない水路がありました。これが三鷹のあたりまで何度か直角に向きを変える仙川でした。「排水管埋設」「下水道局」とあり、仙川のこの部分は排水用に利用されているようです。

 

ここからは雑木林のような遊歩道が続いていました。こんな森のような場所がこの辺りにあるなんて気づきませんでした。

新緑の爽やかな遊歩道を独り占めです。

 

住宅街の間にこの森が続き、そして突き当たったところが玉川上水と武蔵境浄水場で、その反対側には千川上水があります。

 

玉川上水から折り返し、今度は「人」の右側の部分を歩きました。

途中から「堀合遊歩道」と表示されて、左手には畑が広がっていました。住宅と畑とが混在する中を歩くと、三鷹駅の操車場に出ました。そこにある地下道が「堀合地下道」となっていましたから、もしかしたら玉川上水からの分水路がこの辺りを潤していたのかもしれませんね。

線路から南側は、一段低くなっているように見えました。

 

1990年代、中央線のこの辺りにはまだまだ畑がたくさん見えていた記憶が蘇りました。

玉川上水によって拓かれた土地だったのだと、つながりました。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

新型コロナウイルス関連の記事のまとめはこちら