行間を読む 195 八ヶ郷用水の歴史をたどる

八ヶ郷用水の水面を眺めながら休憩したあとは、八ヶ郷用水沿いにしばらく歩きました。

100mほど歩くと、大きな鳥居がありその境内側に八ヶ郷用水が流れています。その先の参道はぐいと上って一段高いところに伯備線の線路が通っていました。2018年に初めて伯備線に乗って以来何度か通過していたのに気づきませんでした。

 

その先の山の中に青江神社があり、ここもまた高梁川の治水の神様だろうと訪ねる計画にしていましたが、急な参道を見てあきらめました。ここから倉敷駅まであと2~3kmですが、この日の午前中に熱中症になりかけたし、バスもないので歩き切らなければなりませんからね。

しばらくまた八ヶ郷用水を眺めながら歩くと、地図にあった三角形の池がありました。ここで大きく東側と南東へと分水されるようです。

 

南東への流れに沿って歩くと、民家のそばの小さな石橋や洗い場、そしてまたいくか分水路や水田があり水車も見えました。倉敷市内の水田地帯でも祖父母のあたりとも違う雰囲気です。

どこまでも水はきれいで勢いよく流れていますが、水底に青々と揺れる水草はなぜ流されないのでしょう。不思議ですね。

 

倉敷駅が近づくにつれて暗渠が増え、駅に到着しました。この先に祖父母の水田があった場所へと水が流れているようです。

 

*八ヶ郷用水を地図でたどる*

 

実際に歩いてみると、真っ直ぐ東へと流れているもう一本の水路が気になり始めました。

地図では山裾に沿ってしばらくまっすぐ流れたあと、中庄の倉敷市立北中学校の北西で六間川とサイホンで交差し、山陽自動車道の近くでその六間川に合流しているように見えます。

 

ところが、六間川はその東数kmの足守川(あしもりがわ)から分かれて西へ流れ、八ヶ郷用水と交差するあたりから南へと流れて藤戸町で倉敷川と合流し児島湾の干拓地を潤して海へと流れ込みますから、八ヶ郷用水とは水の流れが逆のはずです。

 

地図ではわからないこの用水路の複雑さ、またやり残した宿題ができました。

 

 

*八ヶ郷用水の歴史は?*

 

今回、酒津池の案内図で初めて八ヶ郷用水を知りましたが、「はちかごう」かと思ったら「はつかごう」と読むようです。長野県にも八ヶ郷用水があるようですが、こちらは「はっかごう」だそうで、ほんと難しいですね。

 

検索していたらなんと「コトバンク」に説明がありました。

高梁川に設けられた酒津堰から取水し、旧窪屋郡中南部と旧都宇(つう)郡の一部を灌漑する農業用水。天正一三年(一五八五)八月の覚(尾崎文書)には、起源を次のように記す。同一二年八月、庭瀬城(現岡山市)にいた宇喜多秀家の家臣岡利勝は当時開発を進めていた新田の用水確保のため、宮内(現岡山市)の西まで出向き、板倉橋下(現倉敷市日畑か)から湛井(たたい)用水を引く計画を立案したが高低の関係で断念した。その後九月に湛井(現総社市)へおもむき、高梁川の川筋を検分した上で酒津から取水することとし、浜村の四郎三郎の所に逗留し、千原九郎右衛門に命じて井手筋に牓示を立てさせた。翌一三年一月に鍬初めをして水路を堀り、次いで三月には樋を調えた。新旧の二水路に等分に配水するため樋は四寸に定められ、樋守には浜村の四郎三郎が命じられた、八カ郷とは、浜・子位庄(こいのしょう)・東阿知(ひがしあち、生坂・西坂)・三田(みつだ)・西庄(にしのしょう、平田・福島・大島)・五日市・二日市、早島(現窪郡早島町)の各村であるとする。

(「日本歴史地名大系」)

 

てっきり明治の高梁川大改修でつの字に川を付け替えた後かと思っていましたが、16世紀には干拓のために造られていたようです。

 

祖父母の水田は、いつ頃の干拓だったのでしょう。

ますますわからないことが増えました。

 

 

*おまけ*

 

酒津は「津」だから「づ」かと思ったらweblioの住所表記では「倉敷市酒津(さかず)」となっていて、「さかづ」と両方があるようです。

こういうことからまずは整理したほうが良さそうですけれど、時間がかかりそうですね。

 

 

 

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