散歩をする 322 諫早から佐世保へ、大村線の車窓の散歩

雲仙岳を間近に広がる水田地帯の美しさに後ろ髪をひかれるように、諫早駅を後にしました。

 

諫早駅を12時42分に出発する区間快速シーサイドライナーに乗って、佐世保まで一時間半ほどの列車の旅です。

海側が見える席に座りましたが、列車はそれほど混んでいないので山側の風景も見ることができます。キョロキョロと左右の車窓の風景を寸暇を惜しんで見続けていたら、試験期間中でしょうか、大村駅からたくさんの高校生が乗ってきてボックス席も車内もいっぱいになりました。ここからは海側だけをずっと眺めることになりました。

 

二十一世紀に入って生まれた目の前の高校生は、あの大村難民一時レセプションセンターの歴史をどれくらい伝え聞いているのでしょうか。

どのあたりに大村難民一時レセプションセンターがあったのだろう、何か手がかりはないかと車窓を見つめましたが、あっという間に市街地を抜け、目の前に大村湾の遠浅の美しい海が広がる風景になりました。

 

対岸も見えて、まるで静かな湖のような大村湾です。

1980年代半ば、私が働いていたインドシナ難民キャンプは外洋が目の前に広がっていたので、故郷を思い出したりボートピープルとして海原をさまよった記憶が蘇る風景だったかもしれませんが、それとは違う穏やかな水辺の大村湾でした。

この海をながめ、何を思い、その後どのような人生を送っているのだろう。

誰ひとり、難民としてこの地で過ごした方のことを知らないままきてしまいました。

 

諫早駅から大村駅までの間には有明海に流れる本明川と、大村湾に流れ込む東大川や鈴田川との分水嶺があるようです。

まるでその分水嶺と一致するかのように、大村湾側に入ると水田の土が諫早の白っぽい土から赤い土に変化したような気がしました。

 

大村駅から次の松原駅までは比較的平地が多いのですが、松原駅をすぎるとぎりぎり海岸線を行くような風景になりました。

満員だった列車から少しずつ乗客が減って、また山側の風景も見られるようになりました。

わずかの谷戸にもずっと奥まで水田や畑、そして民家が続いています。

日本の水田の風景は平地の印象だったのですが、ここ数年の散歩でこうした谷戸を利用した水田の方がもしかすると多いのではないかと思えてきました。

 

川棚駅の手前からまた平地に住宅地が広がっているのが見えてきました。水路が残っていて、おそらく干拓地だったのではないかと思うような土地です。Wikipedia川棚町には美しい棚田の写真があって、「棚」は水田からきたのでしょうか。

「歴史」を読むと、第二次世界大戦中には臨海部の平地には海軍工廠(こうしょう)などがあったようです。

 

またすぐに山と海の風景になり、小串郷駅の手前には見事な棚田が見えました。

棚田を見るたびに、あの水はどこから来るのか不思議です。

 

また海が見えなくなり、しばらくして左側に川か運河のような流れが見え、対岸にハウステンボスの建物と小高い山が見えてきました。

早岐(はいき)瀬戸です。

近くを走るとやはり瀬戸なのだと思う水面で、あの見沼代用水や武蔵水路を思い出すような、一見、水面は静かでも足がすくみそうな水の流れに見えました。

 

早岐駅で10分の停車時間がありました。

駅の目の前は早岐瀬戸に向かって平地です。この辺りもまた「江戸時代の干拓事業によるもの」(Wikipedia早岐瀬戸」)なのでしょうか。

戦後は、新田を工業団地に転用すべく整備が推進されたが、工業用水が確保できず計画の多くは頓挫した。そのうち赤子新田はハウステンボスへの転用に成功している。(同)

念願だったであろう平地を得て、その後の歴史はその地域それぞれですね。

 

 

あと10分ほどで佐世保に到着ですが、また山のような場所に入り、日宇駅を越えたところからは山肌に家がぎっしりと立ち並ぶ風景になりました。

山の中腹の急な坂道を救急車が登って行くのが見えました。

あの急な坂道も、どうやら佐世保中央病院の敷地内のようです。

 

また海と対岸の丘も見えて、佐世保に到着しました。

地形だけでなくその歴史も起伏に富んだ風景の続く、大村線の旅でした。

 

 

 

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