行間を読む 118 早岐瀬戸と戦争

訪ねてみたいと思う地域があると、何度も何度も地図を眺めながらいくつも計画ができて、最終的には削りながら日程が決まります。

 

 

早岐(はいき)も、計画のままになってしまった一つです。

早岐(はいき)駅で下車すると、すぐ近くに早岐瀬戸があります。

対岸の針尾島との間をまるで川のように流れている早岐瀬戸のそばを歩いてみたいと思ったことと、最初、なんと読むのかわからなかったこの場所がどんな雰囲気なのか見てみたいと思ったのでした。

ところが6月下旬、すでに30度を越える中での散歩になり、ここは車窓の風景だけになりました。

 

 

*「勝磯から大陸へ出撃」*

 

帰宅してからあらためてWikipedia早岐瀬戸を読んでいたら、以下の箇所に目がとまりました。

日露戦争開戦に備え、歩兵第24旅団は験担ぎのために早岐瀬戸の勝磯から大陸へ出撃した。現地には木越安綱司令官の歌碑が建っている。1944年(昭和19年)5月10日、太平洋戦争の激化に対応するために赤子新田に針尾海兵団が開設され、のちに海軍兵学校針尾分校も併設された。敗戦に伴い、引揚者援護局に転用され、引揚者は対岸の南風崎駅から故郷に帰った。

 

「勝磯」はどのあたりだろうと地図をみると現在は勝浦町で、「勝磯」というバス停があり、その対岸の針尾島陸上自衛隊早岐射撃場がありました。

この辺りから日露戦争(1904年(明治37年)〜1905年(明治38年))に出撃し、1944年(昭和19年)の太平洋戦争下では現在のハウステンボスがある場所に海軍兵学校が造られ、その対岸の南風崎(はえのさき)駅から全国に引揚者が帰っていった場所だったようです。

 

終戦から10数年後に生まれた私の世代でも、引揚者というのはよく耳にしていながらすでに「遠い昔の話」に感じていた言葉です。

 

1980年代に暮らした東南アジアで、「あなたのおじいさんやお父さんは、あの戦争で何をしていたのか」と問われて以来ずっと気になっている一世紀の長さですが、ちなみに私が生まれる前にすでに亡くなった父方の祖父は1896年(明治29年)生まれ、母方の祖父は1911年(明治44年)生まれです。

日露戦争が起きたのは父方の祖父でさえまだ小学生ぐらいですし、母方の祖父はまだ生まれてもいなかったのかと、今回あらためてわかり、なんとも私の中の年表は不正確でした。

二人の祖父は、日露戦争をどのように認識し、記憶していたのでしょうか。

 

 

毎年、夏になると悲惨な戦争体験を忘れないための特集を見かけるのですが、当時の鵺のような雰囲気に切り込んだものは少ないですね。

 

 

より正確な事実はどんどんと埋もれて、歴史をたどることは本当に難しいもの。

 早岐瀬戸の周辺の歴史の変遷を垣間見る一文を読み、そんなことを考えました。

 

 

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