事実とは何か 8 <鵺(ぬえ)のような>

「母と乳 第3部 生後のリスク/上 『3日分のお弁当』招く誤解」 を読んで、ふと思いついた言葉が「鵺のような」でした。


私がこの言葉を初めて知ったのは、1990年代に読んだ辺見庸氏の本でした。


なんでこの言葉が浮かんだのか、検索していて思いつきました。


2000年に行われた講演会の、「聞こえぬ音」という講演録の後半にこんな箇所があります。
(直接リンクできないので、その題名で検索してみてください)

私は、いまこの国には「鵺(ぬえ)のような全体主義」があると何度も言ったことがあります。死刑制度に対する態度もまさに「鵺のような全体主義」です。皆で顔を隠す。主体を消し去る。責任主体がどこにもない。

そうそう、この「皆で顔を隠す。主体を消し去る。責任主体がどこにもない」。


これはずっと出産や授乳に関する変化について感じて来たこと。


「医療介入のないお産」「自宅出産」「水中出産」「フリースタイル出産」
でも何か事故があっても、根本的な解決を考えたり、そういう考えが広がったことは顧みない。


ホメオパシーなどの代替療法や、偏った食事療法や民間療法を積極的に広げても、事故が起きると誰もそのことには関わりがなかったかのように振る舞う。


そして、カンガルーケアや完全母乳を広げた動きがあったはずなのに、何か事故が起きても誰も責任を問わない。危ないからやめようという動きにもならない。


そう、「主体を消し去る」「責任主体がない」を繰り返して来ているのではないかと。


そして社会の気分(モード)に影響を受けて、最前線で対応している人の責任にすり替わる。
なぜ最前線では、そのモードにあらがいがたいのか。


あるいは一時期、社会全体でもてはやした言葉に対して、手のひらを返してその責任にする。
その言葉を求めていた時代はどういう時代だったか。


そういう「事実」が顧みられることもない。


<なぜ鵺のような全体主義が広がるのか>



「鵺のような」というのは、「つかみどころがなくて正体のはっきりしない人物・物事」(コトバンクデジタル大辞泉)とあります。


冒頭で紹介した辺見庸氏の講演録の中に、こんな箇所があります。

司法の言葉、あるいは報道の紋切り型で語られたことというのがいかに実像と違うものかと思いましたし、そのことをとくと知らされたことで、私は奥のところで深く傷ついたと思っています。我々は簡単に事実あるいは真実といいますが、そのときに思いましたのは事実ということの頼りなさであります。

私はこの言葉を思い出したのです。これは一九七一年に埴谷雄高が書いた文章ですが、「そこに『事実』があると受け取ってしまえば、そこはある種の想像力の墓場となる」(「事実と事実についての断片」)と言うわけです。埴谷はさらに次のように記しています。「主題が人間である限り、『事実』とはつねに永劫に掘り起こせない過誤を含んだ何物かであるといわねばならない。即ち、事実でないことをつねにそこに保ちもつこと、それが『事実』の保ちもつべき恐ろしい逆説である」。事実というのは必ず人間的な過誤を含んでいる、事実という言葉は悲しいかな"非事実"ということを保ちもつ。それが事実といわれていることの逆説なのだ、と言っています。

辺見氏のこの講演録は死刑制度に関するものですから、一部分を切り取って引用することに躊躇があるのですが、「事実」とはなにか視界を広げてくれるものだと思いました。


「事実という言葉は悲しいかな"非事実"ということを保ちもつ」


事象を見る時には、さまざまな角度から見る。
それでも人間の認知する事実には限界がある。


産む力があるとか、母乳だけで育てられるといった壮大な理想の前には、たくさんの悲しい事実も無いことになってしまいやすいのでしょう。


でも何か事故が起きて、その理想は現実的に無理だと目が覚めた時に、信じた自分の責任までは考えない。


それが鵺のような全体主義の正体ともいえるかもしれません。
そしてそれは、誰かのせいでもなく、自分の中にあると。


こちらの記事の最後で紹介した伊丹万作氏の言葉を再掲します。

多くの人が今度の戦争でだまされていたという。いくらだます人がいても、だれ一人だまされるものがなかったら、今度のような戦争は成り立たなかったに違いないのである。
「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。
いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているに違いないのである。


「うそ」というのは言葉を変えれば「偏った事実」。
それを信じ込むと鵺のような全体主義がいつでも、繰り返し繰り返し、姿かたちを変えてあらわれるのでしょう。





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