100年という長さは、不思議な長さだとよく感じます。
特に半世紀を生きてしまった私にとっては、一世紀前というのは大昔なのかそれとも近い昔なのかなんだかわからなくなることがしばしばあります。
二十代の頃の私にとっては一世紀前というのは「大昔」でした。
いえ、自分か生まれていない30年前、40年前のことも当然ですが現実感がなく、とても昔だと感じていました。
「私とニセ科学的なものについてのあれこれ」で、東南アジアの某国に住んでいたときに「あなたのおじいさんやお父さんは、あの第二次世界大戦の時にどこで何をしていたのか」と、同世代の若者からも問われたことを書きました。
当時、二十代前半の私にとって第二次世界大戦というのは、それまではなんだかとても昔の話としか思えない、自分自身には無縁な歴史の話でしかありませんでした。
第二次大戦が終わって、わずか十数年ちょっとしかたっていない時期に生まれた私であっても、歴史の感覚というのは不思議なものだと強く心の片隅に残りました。
そして、当時の日本は高度経済成長期の真っ只中ですから、社会は老いも若きも皆ただただ豊かな生活を求めて「前」だけを見ている雰囲気でした。
経済的豊かさをばねに、若者が海外へ飛び出すことが可能になりました。私もそのひとりでした。
飛び出した先で、アジアの中の日本を意識し、しだいに歴史を見直す動きが出始めたのだと思います。
片や東南アジアで出会った同世代の若者は、常に祖父母の世代からの植民地主義の歴史を振り返りながら生きていました。
「あなたのおじいさんやお父さんは何をしていたのか」と。
その視線は、ちょうど一世紀にあたります。
同じ時代を生きているのに、一世紀を振り返りながら今を考えている東南アジアの同世代に、私は自分の薄っぺらな生き方を目の前に突きつけられたような思いでした。
一世紀というのは、不思議な時間の長さです。
綿々と連なる何かがある反面、同じ言葉でも全く違う世界が広がる。
そんな時間の長さではないかと思います。
ちょっと前置きが長くなりましたが、「助産」の一世紀をしばらく考えてみたいと思います。