弥富市歴史民俗資料館で購入した本に、「伊勢湾台風体験記 泥海からよみがえる」がありました。
おびただしい数の犠牲者の方々のことや、浸水したまま屋根の上で2ヶ月もの被災生活について、50人ほどの方々の記録が収録されていました。
父はこういう状況にいたのだと、こうしてはるばる弥富まで来て求めていた本に出会ったと思いました。
本の表紙には、「十四山村教育委員会」と書かれていました。
「十四山村」はなんと読むのだろう、どのあたりなのだろう、なぜ弥富市ではないのだろうと検索したら、十四山村(じゅうしやまむら)で、2006年に弥富町と十四山村が合併して弥富市になっていたようです。
十四山村(じゅうしやまむら)は、かつて愛知県西部、海部郡に存在した村。
木曽川水系の河川によって作られた水郷地帯が広がり、水耕を中心とする農業が盛んな村であった。全域が海抜ゼロメートル地帯の起伏のない平坦な土地である。十四山という地名は木曽川河口の三角州に形成された葦山十四カ所を干拓した土地であったことから名付けられた説が有力である。
「海部郡」は「あまぐん」と読むようです。
その「地理」に記されている「字名」を頼りに地図でみてみたところ、弥富駅の東側に「三百島」を見つけました。そこからたどっていくと、南の方に四方八方からの水路の流れを集めたような水色の場所に「子宝」という地名を見つけました。
どうやらこのあたりのようです。
*十四山村発足以来の最大級の災害だった*
この本は、伊勢湾台風から二十七年が過ぎて「全村民の三分の一はそのおそろしさを知らない人」(「発刊にあたって」より)となり、「本村開拓以来、最大の災害」を記録に残すため、村政八十周年を記念して1986年(昭和61年)に発刊されたことが記されています。
Wikipediaの「十四山村」によると、1899年(明治22年)に町村制施行により村が成立したとありますが、1987年(明治20年)から行われていた木曽三川分流工事の真っ最中のようです。
その当時のこのあたりはどのような場所だったのでしょう。
木曽三川分流工事の全行程が完成したのが1912年(明治45年)で、Wikipediaの「工事以降」にその効果が書かれています。
陳情から28年、着工から12年の年月を要し、当時の最新技術に基づいた完全分流工事は著しい効果を挙げ、旧海津郡などの1899年前後を比較した資料によると、水害による死者は306名から10人へ、全壊家屋または流失家屋は15,436軒から304軒へ、堤防の決壊箇所は1821箇所から226箇所へと激減し、明治改修の効果のほどを物語っている。
十四山村の有史以来の災害であったが記されているところから、少なくとも木曽三川分流工事が完成して半世紀ほどは、この地域の水害が激減していたということを意味しているのでしょうか。
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