記録のあれこれ 109 災害時の救援の記録

「伊勢湾台風体験記 泥海からよみがえる」を少しずつ読んでいるのですが、被災後二十数年たってから書かれたというのに、時系列がきちんと記録されている内容が多いことに驚きます。

被災直後は生き延びるだけでも精一杯でとても何かに記録する余裕はなさそうなので、もしかすると、混乱した記憶と感情を整理し、言葉にならなかったものを言葉にするまでには四半世紀ぐらいの時間が必要なのかもしれませんね。

 

そしてその記憶がどこまで正確で、そしてその記憶自体が事実であったか、気持ちを整理していくということにも対峙しなければいけないので、やはり時間がかかるのかもしれません。

 

 

中には、「救護にあけくれる毎日」として、被災者でもあり救援者でもあった方々の記録もいくつかありました。

役所や消防団、農協の職員だった方などです。

自分自身や家族を守るだけでなく、物資運搬やご遺体への対応などの記録がありました。

 

「最前線の救援にあたる」(p.58~)にはこんな箇所がありました。

その後、死体集めを団員全員で行う。仏様は、水に浮いているうちは水ぶくれになっており、舟で引くと思うように引けなく、縄をかけると皮膚がめくれて骨までくい込み、本当に気の毒で涙が出る。仏様を神戸新田の北新田橋の南側の橋のたもとに上げる。体は水ぶくれで、皮膚ははがれて骨の見える人が多く、土の上にあげることが一番辛い仕事である。流木を集めて、その上に死体をのせて油をかけて焼くのである。焼く前に身元を確認するのであるが、それが遅れて二日ぐらいおくと、くさり始めて、はえが多くよってきて困った。そんなことが、何日も何日も繰り返された。死体を焼くについても、半分ぐらい焼くと潮がきて、水にさらわれることもたびたびあった。身内が来られるのを待てども、来られない死体もある。来られない死体は、二、三日すぎて警察や役場から職員が来て話がまとまるようになると、心の落ち着きができるようになった。死体は一日一日多くなり、舟で運ぶ消防団員も疲れて家に帰るが、水の中の家路につく後ろ姿はあわれで、辛さを口に出すこともできず、一人涙を流すことが幾日も続いた。

 

 

「辛さを口に出すこともできず、一人涙を流すことが幾日も続いた」

このように表現できるようになるまで、どれだけの年月が必要だったことでしょう。

 

地元で被災しながら救援にあたる方々もそうですが、各地から被災地へと入る自衛隊、消防、警察、自治体職員の方々など、どのような災害の記録をつけていらっしゃるのでしょう。

淡々と時系列に状況を記録していくのでしょうか。

 

苦しい疲れたもうやめたでは人の命は救えない仕事ですし、「強さ」を求められている仕事でもありますから、その心の内側に秘めるしかないまま語られなかった大事な記憶はどれほどあることでしょう。

 

ただ、引用したような状況は人の関心を生み出しやすい反面、それはそれで現代の地獄絵図になる危うさもありそうですね。

 

そういえば、父が遺した物の中には日記らしいものはありませんでした。

 

 

 

 

 

 

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